袁渙(えんかん) ※あざなは曜卿(ようけい)

【姓名】 袁渙(えんかん) 【あざな】 曜卿(ようけい)

【原籍】 陳郡(ちんぐん)扶楽県(ふらくけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁渙伝』あり。

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外は温和、内は勇気と決断力

父は袁滂(えんぼう)だが、母は不詳。息子の袁侃(えんかん。袁偘)は跡継ぎで、袁㝢(えんう)・袁奥(えんおう)・袁準(えんじゅん)も同じく息子。

袁渙は清潔で落ち着きがあり、必ず礼に従って行動した。彼が郡から功曹(こうそう)に任ぜられると、郡中の不正官吏は自ら辞職してしまうほどだった。

後に公府へ招かれると、優秀な成績で推挙されて侍御史(じぎょし)に昇進する。次いで譙県令(しょうけんれい)に任ぜられたものの就任しなかった。

194年、劉備(りゅうび)が豫州刺史(よしゅうしし)になると、袁渙は茂才(もさい)として推薦される。その後、長江(ちょうこう)と淮河(わいが)の中間地帯に避難し、袁術(えんじゅつ)の任用を受けた。

袁渙は何か諮問されるたびに正論を吐き、袁術は逆らうことができなかった。袁術は彼に敬意を表し、礼を尽くさずにはいられなかったという。

197年、袁術軍は阜陵(ふりょう)で呂布軍(りょふぐん)の攻撃を受ける。袁渙は袁術に従って駆けつけたものの、呂布に捕らえられてしまう。

初め呂布は劉備と親密だったが、後に仲たがいした。呂布は劉備を侮辱する手紙を書くよう脅すが、ついに袁渙は承知しなかった。

翌198年、曹操(そうそう)により呂布が処刑された後、袁渙は曹操のもとに身を寄せ、沛南部都尉(はいなんぶとい)に任ぜられる。

当時、曹操は民から希望者を募って屯田(民屯)を開いたが、これを嫌がり多数の逃亡者が出た。

袁渙は、民は移住を嫌がるものだと言い、希望しない者に参加を強制しないよう進言。曹操がこれを容れたため、民は非常に喜んだ。

袁渙が梁国相(りょうこくしょう)に転ずると、連れ合いを亡くした男女や高齢者を慰労し、孝子や貞婦を顕彰するよう諸県に命じた。

また、政治を行うにあたっては教化と訓戒を第一とし、思いやりを示してから実行に移す。

袁渙は外面こそ温和だったが、心中では思い切った決断をした。やがて病気のために官職を離れたが、民は彼を思慕したという。

その後、袁渙は朝廷に召されて諫議大夫(かんぎたいふ)・丞相軍祭酒(じょうしょうぐんさいしゅ)となる。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

袁渙は前後を通じて多くの下賜を受けたが、すべて使って家に蓄えることがない。土地や財産などは、まるで眼中になかった。

とはいえ、不足すれば他人から取り立てていたので、特に疑惑を持たれぬ行動を心がけていたわけでもなかった。それなのに人々は彼の清潔さに感服したのである。

213年、魏が建国されると、袁渙は郎中令(ろうちゅうれい)・行御史大夫(こうぎょしたいふ)となった。

そして、大いに書籍を収集し、先代の聖人の教えを明らかにして、そのことにより民の耳目を一新するよう進言。曹操はこれを嘉(よみ)した。

このころ劉備が死んだ(実は誤報)と伝えた者がおり、曹操の配下はみな慶賀する。

だが、袁渙は以前に劉備から推挙されたことがあったので、ひとりだけ祝意を表さなかった。

それから数年後に袁渙が亡くなる(時期は不明)と、曹操は彼のために涙を流し、穀物2千石(せき)を賜与。息子の袁侃が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、袁渙が亡くなった際に賜与された2千石については以下のようにありました。

曹操は「太倉(たいそう。政府の穀倉)の穀物1千石をもって、郎中令(袁渙)の家に下賜せよ」という布告に加え、「垣下(えんか。〈魏の〉宮廷)の穀物1千石をもって、陽卿(袁渙のあざな)の家に与えよ」という布告も出します。

事情を知らない者は(あえて別々の布告を出す)理由がわかりませんでしたが、曹操はこうも述べます。

「太倉の穀物を用いるのは公の法である。垣下の穀物を用いるのは旧知への親愛である」

袁渙は『三国志演義』や吉川『三国志』に登場しません。まぁ、小説などでは戦闘がらみの話のほうが盛り上がりそう――。

「屯田制(民屯)」は重要な要素ながら、物語では注目されにくいため、袁渙の使いどころが難しかったのかもしれません。

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