荀攸(じゅんゆう)

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【姓名】 荀攸(じゅんゆう) 【あざな】 公達(こうたつ)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)潁陰県(えいいんけん)

【生没】 157~214年(58歳)

【吉川】 第017話で初登場。
【演義】 第002回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・荀攸伝』あり。

状況に応じた献策で曹操(そうそう)を支えるも、その詳細は後世に多く伝わらず

父は荀彝(じゅんい)だが、母は不詳。荀曇(じゅんたん)は祖父。荀イク(じゅんいく)は従父(おじ)にあたるが、荀攸のほうが6歳年長だった。息子の荀適(じゅんてき)は跡継ぎで、荀緝(じゅんしゅう)も同じく息子。

荀攸は幼いころ父を亡くした。

189年、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)が荀攸ら20人余りの名士を召し寄せる。荀攸はこれに応じ「黄門侍郎(こうもんじろう)」に任ぜられた。

この年、董卓(とうたく)の乱により関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)で戦争が起こると、翌190年には長安(ちょうあん)への遷都が強行された。

荀攸は、議郎(ぎろう)の鄭泰(ていたい)と何顒(かぎょう)、侍中(じちゅう)の种輯(ちゅうしゅう)、越騎校尉(えっきこうい)の伍瓊(ごけい)らと謀議を凝らし、董卓の刺殺を計画する。

ところが実行の直前になって事が露見し、荀攸と何顒は逮捕された。荀攸は、言葉つきや食事を取るときの態度も泰然自若としていたが、何顒は不安と恐怖のあまり自殺してしまった。

このころ(192年4月)董卓が誅殺されたため荀攸は助かり(人に頼んで董卓を説得してもらった、という異説もある)、官位を捨てて帰郷。のち再び公府に召され、優秀な成績で推挙される。こうして「任城国相(じんじょうこくのしょう)」に昇進したが、彼は赴任しなかった。

その後、地勢が堅固で民も豊かな蜀漢(しょくかん)の地に着目。望んで「蜀郡太守(しょくぐんのたいしゅ)」となったものの、交通が途絶して行き着けず、途中の荊州(けいしゅう)に滞在した。

196年、曹操が献帝(けんてい)を迎え許(きょ)に遷都したとき、手紙を送り荀攸を召す。荀攸は「汝南太守(じょなんのたいしゅ)」に任ぜられ、次いで中央に入って「尚書(しょうしょ)」を務めることになった。

かねてその名声を聞き知っていた曹操は、荀攸と語り合ったあと大いに満足し、「軍師(ぐんし)」として起用した。

198年、曹操の張繡(ちょうしゅう)討伐に随行。荀攸は、張繡が劉表(りゅうひょう)に兵糧を頼っている点を指摘したうえ、厳しく攻め立てず機会を待ち、誘いを掛けて味方に引き入れるよう進言する。

だが曹操は容れず、穣(じょう)まで軍勢を進めて交戦。張繡が危うくなると、荀攸の予想どおり劉表が救援に動き、曹操軍は負け戦となった。曹操は荀攸の意見を用いなかったことを悔やんだが、奇襲部隊を編成して再び戦い、張繡と劉表の連合軍を大破した。

この年、曹操は宛(えん)から呂布(りょふ)討伐へ向かい、下邳(かひ)に到着。呂布は退却して下邳城を固守する。

曹操は城を攻め続けたものの陥せず、将兵の疲労を見て帰還しようかと考えた。このとき荀攸は郭嘉(かくか)とともに、呂布配下の陳宮(ちんきゅう)の計略が定まる前に厳しく攻め立てるよう進言。

曹操は彼らの献策を容れ、沂水(ぎすい)と泗水(しすい)から水を引き、城壁を破壊してついに呂布を生け捕る。

200年、白馬(はくば)で袁紹(えんしょう)配下の顔良(がんりょう)に包囲されていた劉延(りゅうえん)の救援に随行。荀攸は計略を立て、顔良を戦死に追いやった。

曹操は白馬からの帰途、黄河(こうが)を渡り追ってきた袁紹軍と出くわす。曹操配下の諸将はみな恐れ、引き返し軍営を守ったほうがよいと進言。しかし曹操は荀攸の献策に従い、輜重(しちょう)部隊を囮(おとり)に敵軍を釣ろうとした。

この策にかかった袁紹軍は争って駆け寄り、その陣形が乱れる。ここで曹操は歩騎による攻撃に移り敵を大破。文醜(ぶんしゅう)も戦死に追いやった。

こうして曹操は官渡(かんと)で袁紹と対峙(たいじ)することになったが、兵糧が底を突きかける。そこへ袁紹軍の輜重部隊が到着すると聞こえた。荀攸は、輜重を守ってきた敵将の韓シュン(かんしゅん。荀+大)の性格を考え、徐晃(じょこう)に攻撃させるよう勧める。

「韓シュン」については「韓荀(かんじゅん)」「韓猛(かんもう)」「韓若(かんじゃく)」ともあり、名がはっきりしない。

曹操は進言を容れ、徐晃と史渙(しかん)を遣って撃破し、敵の輜重を焼き払った。

このころ、袁紹配下の許攸(きょゆう)が曹操に降る。許攸は、淳于瓊(じゅんうけい)らが1万余の軍勢をひきい、途中まで輸送されてきた兵糧を取りに行ったことを伝え、これを攻撃するよう勧めた。みな許攸の話に疑念を抱いたが、荀攸と賈詡(かく)だけは賛成。

そこで曹操は曹洪(そうこう)と荀攸らを留守に残し、自ら歩騎5千をひきい攻撃の指揮を執り、淳于瓊らをことごとく斬り殺した。袁紹配下の張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)は降伏し、袁紹は兵を置き去りにして逃走する。

張郃が降ったとき、初め曹洪は疑って迎え入れようとしなかった。すると荀攸は、「張郃は、自分の献策が(袁紹に)容れられなかったことに腹を立てて来たもの。どうしてお疑いになるのですか?」と言い、ようやく曹洪も彼を迎え入れた。

202年、袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の討伐のため黎陽(れいよう)へ随行。

翌203年、曹操が劉表討伐に赴いた間に、袁譚と袁尚が冀州(きしゅう)の支配権を巡り争い始める。袁譚が辛毗(しんぴ)を遣わして降伏を願い出、救援を求めてくると、曹操は大勢の臣下に諮問した。

臣下の多くは強力な劉表を先に平定するよう主張したが、荀攸は動かない劉表より、袁氏兄弟が憎み合っている間に冀州を取るよう勧めた。曹操は荀攸の意見に納得。袁譚の申し入れを認め、引き返して袁尚を撃破する。

その後に袁譚が背くと荀攸は曹操に随行し、(205年に)南皮(なんぴ)で袁譚を戦死に追いやった。曹操の上表により「陵樹亭侯(りょうじゅていこう)」に封ぜられた。

207年、献帝が大規模な論功行賞を行う。荀攸は、曹操から荀イクに次ぐ功績を上げたと評価され400戸の加増を受ける。以前と合わせ封邑(ほうゆう)は700戸となり、「中軍師(ちゅうぐんし)」に転じた。

213年、魏が建国されると(魏の)「尚書令(しょうしょれい)」に任ぜられる。

翌214年、荀攸は孫権(そんけん)討伐に随行した途中、58歳で死去。長男の荀緝は若死にしていたため、次男の荀適が跡を継いだ。

しかし荀適には子がなかったため、やがて家は断絶。曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、荀攸の孫の荀彪(じゅんひゅう)が「陵樹亭侯」に封ぜられ、領邑300戸を賜る。後年には「丘陽亭侯(きゅうようていこう)」に移封された。

のち曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)になって、荀攸に「敬侯(けいこう)」の諡(おくりな)が追贈された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には以下のようにありました。

「荀攸は思慮深く緻密で、事を処理する判断力と身の危険を避ける英知を持っていた。曹操の討伐に随行してからはいつも陣幕の内で計略を巡らせていたが、ほかに従軍していた者や肉親でさえ、彼の進言の内容を知る者はいなかった」

「曹操はつねづね褒めたたえ言っていた。『公達(荀攸のあざな)は表面は愚鈍に見えるが、内に英知を持っている。表面は臆病そうだが内は勇気にあふれ、表面はひ弱でも内は剛気である。また善をひけらかさず、面倒なことを人に押しつけない。その英知には近づけるが、愚鈍さには近づけない。顔氏(がんし。顔回〈がんかい〉)やネイ武子(ねいぶし。ネイ愈〈ねいゆ〉。宀+心+用)であっても彼以上というわけにはいくまい』」

「その英知には…」の部分はイマイチよくわからず。原文には「智可及、愚不可及」とあった。

また曹丕が「王太子(おうたいし)」だったころ(217~220年)、曹操が、荀攸は人の手本となる人物だとして、彼に礼を尽くすよう伝えています。

そのため荀攸が病気になったとき、見舞いに訪れた曹丕は、ただひとり寝台の下で拝礼したのだとか。荀攸に対する厚遇ぶりがうかがえます。

さらに、荀攸と仲が良かったという鍾繇(しょうよう)の話もありました。

「鍾繇は『私は何か行動しようとすると、繰り返しよく考え、もう変更の余地がないと確信してからいつも公達に意見を求めた。だが彼の意見は、その考えの上を行くのが常だった』と言っていた。荀攸が立てた奇策は12あったが、それらの内容は鍾繇しか知らなかった。鍾繇は荀攸の著作集を編纂(へんさん)したものの、完成しないうちに死去した」

裴松之(はいしょうし)は、鍾繇が(230年に)80歳で死去したことに触れ、荀攸が立てたという機略が世に伝わらなかった経緯を残念がっていました。

こうしたこともあってか、荀イクに比べると影が薄い荀攸ですけど、実戦における献策の数々は素晴らしいものばかり。荀イクは、曹操の出征時に本拠地の留守を預かっていた印象がありますが、荀攸は現場で献策し続けてきたのですね。

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