孫静(そんせい) ※あざなは幼台(ようだい)

【姓名】 孫静(そんせい) 【あざな】 幼台(ようだい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝』あり。

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孫堅(そんけん)の弟

父母ともに不詳。孫羌(そんきょう)と孫堅は兄。

孫暠(そんこう)・孫瑜(そんゆ)・孫皎(そんこう)・孫奐(そんかん)・孫謙(そんけん)という5人の息子がいた。

189年、兄の孫堅が董卓(とうたく)討伐のために挙兵したとき、孫静は一族や同郷の者たち5、600人を集めて後方の守りを固めた。みなよく孫静の指示に従ったという。

甥の孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を討ち破り、周辺の諸県を安定させると、196年には軍勢を進めて会稽(かいけい)の攻略に向かった。

孫静は孫策の使者から話を聞き、一家眷属(けんぞく)を引き連れて銭唐(せんとう)で合流した。

このとき会稽太守(かいけいたいしゅ)の王朗(おうろう)が、銭唐江(せんとうこう)の対岸にある固陵(こりょう)で孫策軍を食い止めており、孫策は何度も川を渡って戦いを仕掛けたものの、勝つことができずにいた。

そこで孫静は孫策に、要害を背にして城に立て籠もる王朗を直接攻めず、南へ数十里離れた要衝の査瀆(さとく)を攻め取り、そこを足場とするよう進言して容れられた。

孫策は夜を待ち、数百個の甕(かめ)を並べて火を燃やさせ、王朗を欺く。そして軍勢を分けて査瀆への道を進み、孫静を先鋒に高遷(こうせん)の軍営を襲撃した。

知らせを受けた王朗は大いに驚き、もとの丹楊太守(たんようたいしゅ)の周昕(しゅうきん)らを出撃させる。

孫策は周昕らを撃破して首を斬り、勝利の勢いに乗って会稽郡を平定した。

孫策は、孫静を奮武校尉(ふんぶこうい)に任ずるよう上表して要職に充てようとしたが、孫静は故郷や一族の者を懐かしく思い、官職に就くことを願わず、故郷の守りにあたりたいと申し出て許される。

200年に孫策が急死して甥の孫権(そんけん)が跡を継ぐと、孫静は官に復帰して昭義中郎将(しょうぎちゅうろうしょう)まで昇進し、退官後に自宅で亡くなった(時期は不明)。

管理人「かぶらがわ」より

孫静が孫策に査瀆への急襲を勧めた話は、吉川『三国志』(第59話)や『三国志演義』(第15回)にも使われています。

孫静は弟として兄の孫堅に助力し、兄の死後は叔父として孫策や孫権を支えました。息子たちにも活躍した人物が多いですね。

生没年がはっきりしませんが、兄の孫堅(156年もしくは155年生まれ)や次男の孫瑜(177年生まれ)から想像すると、孫静の生年は150年代の後半だと思われます。

なので、孫堅とはそれほど年齢差がなかったのではないでしょうか。

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