【姓名】 孫輔(そんほ) 【あざな】 国儀(こくぎ)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫輔伝』あり。
孫羌(そんきょう)の息子
父は孫羌だが、母は不詳。孫賁(そんほん)は兄。
孫興(そんこう)・孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)・孫昕(そんきん)という4人の息子がおり、このほかに駱統(らくとう)に嫁いだ娘もいた。
孫輔は揚武校尉(ようぶこうい)として、従弟の孫策(そんさく)の3郡(会稽〈かいけい〉・丹楊〈たんよう〉・豫章〈よしょう〉)の平定を助けた。
196年、孫策が丹楊郡の7県を討伐した際には、孫輔が西進して歴陽(れきよう)に軍営を置き、袁術(えんじゅつ)の侵攻を阻む。また、その地に残っていた民を説得して配下に入れ、逃散していた者を呼び集めさせた。
さらに孫策に従って陵陽(りょうよう)を討伐し、祖郎(そろう)らを生け捕りにした。
孫策が廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)を攻めた際も、孫輔は自ら先頭に立って手柄を立てた。
孫輔は、孫策が豫章郡を分割して新設した廬陵郡(ろりょうぐん)の太守(たいしゅ。廬陵太守)に任ぜられ、郡内の宣撫(せんぶ)にあたった。
後に平南将軍(へいなんしょうぐん)に昇進して仮節(かせつ)となり、交州刺史(こうしゅうしし)の職務にあたる。
ところが、曹操(そうそう)のもとに使者を遣わして関係を持ったことが発覚すると、孫権(そんけん)により幽閉された。
それから数年して孫輔は死去したが、4人の息子たちは、それぞれしかるべき官職に就くことができた。
管理人「かぶらがわ」より
孫輔が曹操のもとに使者を遣わした件について、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』には以下のようにありました。
「孫輔は、孫権では江東(こうとう)の地を保つことが難しいと考え、孫権が東冶(とうや)へ行っている隙に乗じ、曹操のもとへ使者を遣わして手紙を届けさせた」
「しかし使者を務めた者が、このことを孫権に報告してしまう。東冶から戻った孫権は何も知らないふりをして、張昭(ちょうしょう)とともに孫輔と会った」
「孫輔は、孫権から曹操に手紙を送ったことを問いただされると、『ありもしないことだ』と答えた。そこで孫権は、孫輔が送った手紙を張昭に投げ、張昭が孫輔に示した。孫輔は恥じ入って弁解の言葉もなかった」
「孫権は孫輔の側近をみな斬罪とし、その部曲(ぶきょく。私兵)を諸将に分属したうえ、孫輔を東方へ強制移住させた」
ただ『三国志』(呉書・呉主伝〈ごしゅでん〉)には孫権が東冶へ行った記事は見えず、時期も含めてはっきりとしたことはわかりませんでした。
孫輔の兄である孫賁の娘(つまり孫輔の姪)が、曹操の息子である曹彰(そうしょう)に嫁いだりしているので、このあたりのこととも関係がありそうです。
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