袁遺(えんい)

【姓名】 袁遺(えんい) 【あざな】 伯業(はくぎょう)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第028話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。

反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯。その好学ぶりを曹操(そうそう)から称賛される

父母ともに不詳だが、母は何夔(かき)の従姑(おば)だという。袁紹(えんしょう)の従兄や袁術(えんじゅつ)の兄(従兄とも)という記事も見られるがイマイチはっきりしない。

袁遺は「長安県令(ちょうあんけんのれい)」を経て「山陽太守(さんようのたいしゅ)」となった。

190年1月、山東(さんとう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、彼もこの動きに呼応した。

同年2月、董卓は諸侯の挙兵を聞くと、献帝(けんてい)に迫り長安への遷都を強行。董卓自身は洛陽(らくよう)に留まっていたが、3月には洛陽に火を放ち、宮廟(きゅうびょう)や民家を焼き尽くした。

このとき袁紹は河内(かだい)に、袁遺は張邈(ちょうばく)・劉岱(りゅうたい)・橋瑁(きょうぼう)とともに酸棗(さんそう)に、袁術は南陽(なんよう)に、孔伷(こうちゅう)は潁川(えいせん)に、韓馥(かんふく)は鄴(ぎょう)に、それぞれ駐屯していた。しかし諸侯の足並みがそろわず、やがて連合軍は自然解散した。

その後、揚州刺史(ようしゅうしし)の陳温(ちんおん)が死去(193年3月に袁術によって殺害されたとも、病死したともある)すると、袁遺は袁紹の命を受け「揚州刺史」として赴任。だが、のち袁術に敗れて沛国(はいこく)へ逃走し兵士に殺害(時期は不明)されたという。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、張超(ちょうちょう。あざなは「子並〈しへい〉」。張邈の弟とは別人のはず)が太尉(たいい)の朱儁(しゅしゅん)に袁遺を推挙したことがあったそうです。そのとき張超が袁遺の徳や器量、学識について激賞した言葉も載せられていました。

ちなみに范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)によれば、献帝が朱儁を「太尉」に任じたのは193年6月のことで、翌194年7月には罷免しています。さらに言えば、翌195年に朱儁は憤死しました。

また、『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)の裴松之注に引く曹丕(そうひ)の『典論(てんろん)』には以下のようにあります。

「曹操はつねづね詩書や文学的な書物を愛好しており、軍中にあったときいつもこう言っていた。『人というのは若いころは学問に励むものだが、成長するとその心がけを忘れるものだ。成長してからもよく学問に励んでいる者は、ただ私と袁伯業(袁遺)にすぎぬ』」

袁遺の学問に取り組む姿勢が、曹操から高く評価されていたことがうかがえますね。

それにしては袁遺に関する記事は少なく、そもそも父が誰なのかもはっきりしません。袁紹は袁逢(えんほう)の息子(庶子)とも袁成(えんせい。袁逢の兄)の息子とも言われ、袁術とは異母兄弟なのか従兄弟なのか、いろいろな文献を見てもよくわかりませんでした。

袁紹が袁逢の庶子で、家を出て伯父の袁成の家を継いだという話を採るなら、実際は袁術の異母兄であっても、形式的には従兄(袁紹が袁成の養子という扱い)でいいわけですよね。

そして、袁紹が袁成の息子だったという話を採るなら、そのまま袁成の家を継ぐのが当然なので、袁術とは従兄弟の関係ということでいいのでしょう。

ここで話をややこしくしているのは、『三国志』などでは「従兄」のことが「兄」と表現される場合があるということ。

袁遺はあざなに「伯」が付いているので、おそらく長男だろうと思っていました。そのため、袁遺は袁逢の息子で、袁紹や袁術とは兄弟(同母なのか異母なのかわかりませんが……)だろうと想像していました。

でも「(袁遺は)袁紹の従兄にあたる」という『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注や、「(袁遺は)袁術の兄で、その母は何夔の従姑だった」という『三国志』(魏書・何夔伝)の記事だけでは何とも言えないですね。ほかの記事とつながると見えてくるものがあるかもしれませんから、結論は保留にしておきます。

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