王匡(おうきょう) ※あざなは公節(こうせつ)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

【姓名】 王匡(おうきょう) 【あざな】 公節(こうせつ)

【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第020話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。

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反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、性格には問題あり

父母ともに不詳。胡母班(こぼはん)に嫁いだ妹がいた。

王匡は財貨を軽んじ、施し好きで、任俠(にんきょう)をもって知られていた。

大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)に招かれると、割り符を持って徐州(じょしゅう)へ行き、強弩(きょうど)500張を徴発して洛陽(らくよう)へ運んだ。

189年8月、何進が宦官(かんがん)の誅滅に失敗して殺害されると、王匡は郷里へ帰る。しかし、ほどなく河内太守(かだいたいしゅ)に起用された。

翌190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、彼も河内太守として呼応した。

王匡は、泰山郡の軍勢を河陽津(かようしん)に駐屯させ、董卓を襲撃しようとした。また韓浩(かんこう)を従事(じゅうじ)に任じ、軍勢をひきいて孟津(もうしん)へ向かわせ、董卓軍と対峙(たいじ)させた。

これに対し、董卓は兵を出して平陰(へいいん)から河を渡るように見せかけ、一方で密かに精鋭部隊を小平津(しょうへいしん)から北へ渡し、王匡の背後を突かせる。王匡は河陽津の北で董卓軍に大破され、配下の軍勢はほぼ壊滅した。

董卓は、執金吾(しつきんご)の胡母班と将作大匠(しょうさくたいしょう)の呉脩(ごしゅう)に詔書を持たせ、袁紹(えんしょう)らに服従するよう呼びかけた。このとき王匡は袁紹の命を受け、胡母班らを殺害した。

その後、これを恨んだ胡母班の身内の者が、曹操(そうそう)と協力して王匡を殺害(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・常林伝〈じょうりんでん〉)には、王匡の性格を表した次のような話がありました。

「王匡が反董卓連合軍に参加した後、書生たちを属県に遣り、密かに官民の罪科を探らせた。こうして該当者を逮捕して取り調べ、金銭や穀物で罪を購わせた。要求に応じずグズグズしていると、逮捕者の一族を皆殺しにしてしまい、そのことによって自身の威厳を高めていた」というもの。

そして「常林の叔父も、食客を鞭(むち)打ったことを書生に密告されたため逮捕された」ということでした。

ただこのときは、常林が王匡と同県の胡母彪(こぼひゅう)を訪ねて自分の思いを述べ、胡母彪が王匡に手紙を送って責めたので、常林の叔父は許されています。

王匡の俠気(きょうき)の原資が、こういう形で捻出されたものだったのなら、その親分的な評判も偽物ですね。

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