【姓名】 孫綝(そんりん) 【あざな】 子通(しとう)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 231~258年(28歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第111回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫綝伝』あり。
孫綽(そんしゃく)の息子、孫静(そんせい)の曾孫にあたる
父は孫綽だが、母は不詳。孫恩(そんおん)・孫拠(そんきょ)・孫幹(そんかん)・孫闓(そんかい)は弟。
孫綝は偏将軍(へんしょうぐん)だったが、256年9月に従兄の孫峻(そんしゅん)が亡くなった後、侍中(じちゅう)・武衛将軍(ぶえいしょうぐん)・領中外諸軍事(りょうちゅうがいしょぐんじ)に昇進。
中央と地方の軍事を総括したうえ、孫峻に代わって朝政を取り仕切ることになった。
さらに、対立した呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)を死に追いやると、同年11月には大将軍(だいしょうぐん)に昇進。仮節(かせつ)となり、永寧侯(えいねいこう)に封ぜられた。
孫綝は高位に昇ったことで慢心が生じ、礼に背く行動が目立ち始める。
翌257年から258年にかけて、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こした際、孫綝は対応を誤って多数の戦死者を出し、名のある部将を誅殺したため呉の人々の不満を買う。
258年8月、孫亮(そんりょう)らが孫綝の誅殺を計る。
孫綝は計画を察知すると、孫亮を廃位して会稽王(かいけいおう)に貶(おと)し、全尚(ぜんしょう)を零陵(れいりょう)へ強制移住とし、魯班(ろはん。全公主〈ぜんこうしゅ〉)を豫章(よしょう)へ配流した。
同年10月、孫綝は孫亮に代えて、琅邪王(ろうやおう)の孫休(そんきゅう)を帝位に迎える。
ほどなく孫綝は丞相(じょうしょう)・荊州牧(けいしゅうぼく)に任ぜられ、食邑(しょくゆう)として5県を授けられた。彼の4人の弟もそれぞれ要職を占め、みな侯に封ぜられた。
同年12月、孫休らが密かに進めていた孫綝誅殺計画が発動する。
孫綝は臘会(ろうかい。祖先および百神の祭祀〈さいし〉)の席で捕縛され、そのまま処刑された。このとき28歳だった。
孫休は、自分が孫峻や孫綝と同族であることを恥じ、ふたりを一族の系譜から外したうえ、故峻(こしゅん)や故綝(こりん)と呼んだという。
主な経歴
-231年(1歳)-
この年、誕生。
-256年(26歳)-
9月、呉の実権を握っていた従兄の孫峻が死去。侍中・武衛将軍・領中外諸軍事として中央と地方の軍事を総括し、孫峻に代わって朝政を取り仕切ることになる。
これに呂拠と滕胤が異を唱え、孫綝を廃そうと計ったものの、従兄の孫慮(そんりょ。孫憲〈そんけん〉)や文欽(ぶんきん)・劉纂(りゅうさん)・唐咨(とうし)らの軍勢を繰り出し、呂拠を自殺に追い込む(処刑された可能性もありそう)。
滕胤とは、互いに謀反を起こしたという上表を行った後、劉丞(りゅうじょう。劉承〈りゅうしょう〉と同一人物の可能性が高い)らの軍勢を遣り、滕胤やその一族も皆殺しにした。
11月、大将軍に昇進して仮節となり、永寧侯に封ぜられる。
11月、孫峻の時ほど厚遇されなくなっていた孫慮が不満を抱き、将軍の王惇(おうとん)らとともに孫綝の誅殺を計る。計画を察知したため王惇を殺害すると、孫慮は毒薬を仰いで自殺した。
-257年(27歳)-
5月、魏の諸葛誕が寿春で反乱を起こし、城に立て籠もったまま呉へ投降を申し入れる。
これに対して呉は、文欽・唐咨・全端(ぜんたん)・全懌(ぜんえき)らを遣わし、3万の軍勢をもって諸葛誕の救援に向かわせた。
このとき魏の鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の王基(おうき)が寿春を包囲していたが、文欽らは包囲を突破して城内へ入る。
魏は中央軍と地方軍、合わせて20余万を動員し、寿春の包囲を強化した。
呉の朱異(しゅい)は、3万の軍勢をひきいて安豊城(あんぽうじょう)に本営を置き、文欽らのために外部から魏軍を牽制(けんせい)しようとした。
これに対して魏の兗州刺史(えんしゅうしし)の州泰(しゅうたい)は、陽淵(ようえん)で朱異軍に反撃する。
朱異は敗れて追撃も受け、2千の死傷者を出した。
7月、戦況を知った孫綝は大動員をかけ、自ら鑊里(かくり)まで本営を進める。
そこで再び朱異を遣り、将軍の丁奉(ていほう)や黎斐(れいひ)らとともに5万の軍勢を指揮させ、魏軍への攻撃を命じた。この際、輜重(しちょう)は都陸(とりく)に留めさせた。
朱異は黎漿(れいしょう)に本営を定めると、将軍の任度(じんたく)や張震(ちょうしん)らを遣り、6千の決死隊を募らせた。
決死隊は本営から西に6里の場所に浮橋を架けると、夜陰に紛れて対岸へ渡り、偃月塁(えんげつるい)を築いた。
ところが、魏の監軍(かんぐん)の石苞(せきほう)と州泰の攻撃を受けて敗れ、呉軍は退却して小高い場所に拠った。朱異は装甲馬車を用意して、再び五木城(ごもくじょう)へ向かおうとした。
石苞と州泰から攻撃されると、敗れた朱異は軍勢を返そうとしたが、魏の太山太守(たいざんたいしゅ)の胡烈(これつ)が奇策を用い、抜け道から都陸を襲撃する。朱異の輜重はすべて燃えてしまった。
孫綝は新たに3万の軍勢を授け、朱異に決死の攻撃をかけさせようとしたが、朱異はこの命令を拒否した。
9月、孫綝は鑊里で朱異を処刑し、代わりに弟の孫恩を救援に差し向けた。
-258年(28歳)-
2月、諸葛誕が魏軍に敗れて戦死したため、呉軍も寿春から引き揚げる。
孫綝は、魏軍の包囲から諸葛誕を救出できなかっただけでなく、多くの兵士を戦死させ、名のある部将を誅殺したことから、呉の人々はみな不満を抱いた。
先の257年4月から孫亮が親政を行って以来、しばしば問責が加えられるようになり、孫綝はひどく不安を感じていた。そのため彼は建業(けんぎょう)に戻っても、病気を理由に参内しなくなった。
孫綝は朱雀橋(すざくきょう)の南に私邸を建て、弟で威遠将軍(いえんしょうぐん)の孫拠を蒼龍門(そうりょうもん。建業の東門)内に置いて宿衛にあたらせた。
同じく弟で武衛将軍の孫恩、偏将軍の孫幹、長水校尉(ちょうすいこうい)の孫闓らには、都のいくつかの軍営に配下の軍勢を置かせ、朝廷を牛耳って自身の立場を固めようとした。
孫亮は心中で孫綝の存在を不快に感じていたので、先の255年に異母姉の孫魯育(そんろいく。朱公主〈しゅこうしゅ〉)が殺害された事件の顚末(てんまつ)を調べさせる。
そして虎林督(こりんとく)の朱熊(しゅゆう)と、その弟で外部督(がいぶとく)の朱損(しゅそん)について、孫峻の悪行を防がなかったとして厳しく問責した。
孫亮は丁奉に命じて、朱熊を虎林で、朱損を建業で、それぞれ誅殺させた。孫綝は参内し、ふたりの処刑を取りやめるよう諫めたが、あくまで孫亮は聞き入れなかった。
8月、孫亮は、異母姉の孫魯班や太常(たいじょう)の全尚、将軍の劉承らと計り、孫綝を誅殺しようとした。
ところが、孫亮の皇后の全氏は孫綝の従姉の娘だったので、計画が孫綝に伝わってしまう(この経緯については、より説得力を感ずる異説が『江表伝〈こうひょうでん〉』にある)。
9月、孫綝は自ら軍勢をひきいて全尚に夜襲をかけ、別に弟の孫恩を遣って蒼龍門外で劉承を殺害させると、そのまま宮城を包囲した。
孫綝は光禄勲(こうろくくん)の孟宗(もうそう)に命じ、宗廟(そうびょう)の神々に孫亮を廃位する旨を報告させ、諸官の長を集めて廃位を決定した。
孫綝は中書郎(ちゅうしょろう)の李崇(りすう)を遣わし、孫亮から璽綬(じじゅ)を取り上げて罪状を各地に知らせた。尚書(しょうしょ)の桓彝(かんい)が文書への署名を拒否したため、孫綝は腹を立てて殺害した。
孫綝は典軍の施正(しせい)の進言を容れて、新たに琅邪王の孫休を帝位に迎えようとした。そこで宗正(そうせい)の孫楷(そんかい)を遣わし、孫休に即位を求める手紙を届けさせた。
孫綝は、将軍の孫耽(そんたん)に命じて孫亮を会稽国まで護送させ、全尚は零陵へ強制移住とし、孫魯班は豫章へ配流とした。
これ以後、ますます孫綝は自分勝手に振る舞うようになり、民や神々を侮り、朱雀大橋のほとりにある伍子胥(ごししょ)の廟を焼き、仏教寺院を打ち壊したり、僧侶を斬ったりした。
10月、孫休が即位すると、孫綝は草莽(そうもう)の臣と称し、宮門から孫休への上書を奉り、官位を返上して隠居したいと願い出た。
だが孫休は、孫綝を引見して慰撫(いぶ)の言葉をかけ、詔(みことのり)を下して丞相・荊州牧に任じたうえ、食邑として5県を与えた。
孫綝の弟たちについても、孫恩は御史大夫(ぎょしたいふ)・衛将軍(えいしょうぐん)・中軍督(ちゅうぐんとく)に、孫拠は右将軍(ゆうしょうぐん)に、それぞれ任ぜられ、ふたりとも県侯(けんこう)に封ぜられた。
孫幹は雑号将軍(ざつごうしょうぐん)に任ぜられて亭侯(ていこう)に封ぜられ、孫闓も同じく亭侯に封ぜられた。
孫綝の一門から5人も侯が出て、それぞれ近衛兵を指揮し、その権勢は主君をもしのぐ。呉の建国以来、朝臣でこのように大きな権力を握った者はいなかった。
ある日のこと、参内した孫綝は孫休に牛酒(牛肉と酒)を献上したが、受け取ってもらえなかった。そこで孫綝はそれを手に、左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)を訪ねた。
孫綝は酒が回ると、帝位に迎えたのは自分なのに、その孫休に献上品を突き返されたと話し、改めて廃立を行いたいとの意向を漏らす。
孫休は張布からこの話を聞いたが、不快な気持ちを態度に表すと孫綝が変事を起こすかもしれないと恐れ、かえってしばしば賞賜を授けた。孫恩にも侍中を加官し、孫綝と分担して公文書の決裁にあたらせた。
このころ、孫綝が謀反を企んでいると告発する者もあったが、孫休は告発した者を孫綝に引き渡し、孫綝が殺害するに任せた。
それでも不安を募らせた孫綝は、孟宗を通じ、都を出て武昌(ぶしょう)に駐屯したいと願い出る。孫休は許可し、孫綝に完全武装した精鋭1万余人を付けてやった。
将軍の魏邈(ぎばく)や武衛士(ぶえいし)の施朔(しさく)が、孫綝には謀反の企てがあると告発。そこで孫休は密かに張布と対策を協議し、張布が丁奉とともに、朝会の席で孫綝を誅殺する計画を立てた。
12月、建業に謡言が流れ、明日の朝会で変事が起こるだろうとささやかれた。これを聞いた孫綝は機嫌を悪くした。その夜、暴風が起こって木を倒し、砂を巻き上げたので、ますます孫綝は不安になった。
翌日、朝廷で臘会が開かれたものの、孫綝は病気を理由に欠席しようとした。孫休は強いて参内するよう促し、そのための使者を十数人も遣わす。孫綝はやむを得ず参内しようとしたが、配下の者は引き止めた。
孫綝は皆に、自分が参内した後、役所で火事を起こすよう言いつけ、それを理由にすぐに戻ってこようと考えた。
こうして孫綝が参内すると、手はず通りに火事が起こり、孫綝は退出したいと申し出た。
しかし孫休が許さなかったため、孫綝は勝手に退出しようとした。すると丁奉と張布がそば仕えの者に目で合図を送り、孫綝を縛らせた。
孫綝は助命を乞うたが、孫休は滕胤と呂拠の件を持ち出して処刑を命じた。このとき孫綝は28歳だった。
孫休は、孫綝の企てに加担したほかの者を赦免する一方、魏へ投降しようとしていた孫闓を捕らえて殺すなど、孫綝の一族は皆殺しとした。
その後、孫峻の柩(ひつぎ)を発(あば)かせ、副葬されていた印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を取り上げ、柩の木材を削ってから埋め戻した。
これは、孫峻が孫魯育らを殺害したことに対する報復だった。
さらに孫休は詔を下し、諸葛恪・滕胤・呂拠は無実だったのに、孫峻と孫綝に殺害されたものだと述べ、諸葛恪らをみな改葬し、それぞれに祭りを捧げさせた。
また、彼らに連座して遠方に流されていた者を、すべて都へ召し還した。
管理人「かぶらがわ」より
孫綝も従兄の孫峻とあまり変わらないですね。同じく大きな権力を手にして地が出たようです。事跡に悪行が目立ち、彼を誅殺しようという動きが何度もありました、ということまで同じ。
孫綝と孫峻の伝は、曾祖父の孫静らが収録されている「宗室伝(そうしつでん)」ではなく、「呉書」の後ろのほうに諸葛恪らと一緒に収録されています。
なお258年8月にある、孫亮らの孫綝誅殺計画が漏えいした経緯について、本伝では、孫亮の皇后だった全氏から孫綝に伝わったように書かれています。
ですが、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝』には、「孫亮から孫綝の誅殺計画を知らされた全紀(ぜんき)が、父の全尚に話した後、全尚が深く考えず、妻(全紀の母)に話してしまった」のだとありました。
この全紀の母というのが、孫綝と祖父を同じくする従姉だったということです。ちなみに孫亮の全皇后も全尚の娘です。
両者の記事には孫盛(そんせい)の見解も載せられており、「『三国志』(呉書・孫亮伝)で、孫亮は若くして聡明だったと称賛されていることから、孫亮が全紀より先に皇后に知らせるようなことはしなかったに違いない」と。
「『江表伝』にある、事が漏れた理由のほうがつじつまが合っている」とも。これは確かにそうかも……。
『三国志』では、時に三国の皇帝の伝(魏だけは「帝紀〈ていぎ〉」と呼ばれて格上)よりも重臣の伝のほうが、ある出来事に関して詳しく書かれています。
特に「呉書」では、その傾向が強く感じられます。有名な赤壁(せきへき)の戦いなどでもそうです。いろいろなところに陳寿(ちんじゅ)の配慮がうかがえます。
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