袁術(えんじゅつ) ※あざなは公路(こうろ)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

【姓名】 袁術(えんじゅつ) 【あざな】 公路(こうろ)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん)

【生没】 ?~199年(?歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第003回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁術伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

四世三公の名門も、帝位を僭称(せんしょう)して自滅

父は袁逢(えんほう)だが、母は不詳。袁基(えんき)と袁遺(えんい)は兄(袁基は同母兄。袁遺は従兄ともいう)で、袁紹(えんしょう)は異母兄。

息子の袁燿(えんよう)は跡継ぎ。ほかに呉(ご)の孫権(そんけん)や黄猗(こうい)に嫁いだ娘もいた。

袁術は若いころ、男気があることで知られていた。孝廉(こうれん)に推挙されて郎中(ろうちゅう)に任ぜられ、中央や地方の官職を歴任した後、折衝校尉(せっしょうこうい)・虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)となった。

189年8月、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)が中常侍(ちゅうじょうじ)の段珪(だんけい)らに殺害されると、袁紹らとともに宮中へ乗り込み、宦官(かんがん)を皆殺しにする。

同年9月、董卓(とうたく)が少帝(しょうてい)を廃して弘農王(こうのうおう)に貶(おと)し、陳留王(ちんりゅうおう)の劉協(りゅうきょう)を帝位に即けた(献帝〈けんてい〉)。

袁術は、董卓の意向で後将軍(こうしょうぐん)に任ぜられたものの、洛陽(らくよう)を脱して南陽(なんよう)に拠る。

南陽郡は数百万の人口を有する大郡だったが、袁術は贅沢三昧(ぜいたくざんまい)で、欲望のままに行動。際限なく税を取り立て人々を苦しめた。

197年春、寿春(じゅしゅん)で帝位を僭称。

袁術の荒淫(こういん)や奢侈(しゃし)は、ますますひどくなり、後宮にいた数百人の女性は、みな綾(あや)取りをした薄絹を身にまとい、上質の米や肉が有り余っていた。その一方、士卒は飢えと寒さに苦んだ。

袁術の支配下にある、長江(ちょうこう)と淮河(わいが)に挟まれた地域には何ひとつなくなり、人々が互いに食い合うという惨状を呈した。

だがこの年、袁術が呂布(りょふ)や曹操(そうそう)に相次いで敗れると、その勢力は急速に衰えた。

199年、皇帝の称号を袁紹に贈り、青州(せいしゅう)の袁譚(えんたん。袁紹の息子)のもとへ身を寄せようと考える。しかし、その道中で病を得て死去した。

主な経歴

生年は不詳。

-189年-
4月、霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)し、少帝が即位。大将軍の何進は、袁紹らと協力して宦官の誅滅を計画したものの、何太后(かたいこう)は許可しなかった。

何進が董卓を召し寄せて圧力をかけようとすると、中常侍や黄門侍郎(こうもんじろう)らは、何進を訪ねて謝罪した。このとき袁紹は再三にわたり、彼らを始末するよう勧めたが、何進は承知しなかった。

8月、何進が中常侍の段珪らにおびき出され、宮中で殺害される。これを受けて、袁術も袁紹らと宮中へ乗り込み、宦官を皆殺しにした。

段珪らは、少帝と異母弟で陳留王の劉協を城外へ連れ出し、小平津(しょうへいしん)まで逃走。だが、段珪らは追い詰められて自殺し、少帝は洛陽に還幸する。

9月、董卓が少帝を廃して弘農王に貶し、陳留王の劉協を帝位に即ける(献帝)。

これより先、董卓が少帝を廃そうとしていたとき、袁術は後将軍に任ぜられたものの、洛陽を脱して南陽に拠った。

9月、董卓が何太后を毒殺。

-190年-
1月、南陽郡で挙兵。冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふく)、豫州刺史(よしゅうしし)の孔伷(こうちゅう)、兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)、勃海太守(ぼっかいたいしゅ)の袁紹、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)の張邈(ちょうばく)、広陵太守(こうりょうたいしゅ)の張超(ちょうちょう)、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)、山陽太守(さんようたいしゅ)の袁遺、済北国相(せいほくこくしょう)の鮑信(ほうしん)、長沙太守(ちょうさたいしゅ)の孫堅(そんけん)らとともに反董卓連合軍を結成。

それぞれ数万の軍勢を擁しており、諸侯の推挙を受けた袁紹が盟主の座に就く。このとき曹操は奮武将軍(ふんぶしょうぐん)を兼務した。

この年、董卓討伐のため南陽まで北上した長沙太守の孫堅が、南陽太守の張咨(ちょうし)を殺害。このため袁術は南陽郡に拠ることができた。

-191年-
春、袁紹が韓馥とともに、幽州牧(ゆうしゅうぼく)の劉虞(りゅうぐ)を帝位に即けようとしたものの、劉虞が固辞したため断念。この際、袁術のもとに袁紹の使者が着き、劉虞を擁立する旨が伝えられた。

袁術は漢(かん)王朝の衰退を見て、密かに異心を抱いていたため、表向きは公義にかこつけ、袁紹の提案を拒絶した。

袁術は袁紹と仲たがいし、やがて荊州刺史(けいしゅうしし)の劉表(りゅうひょう)ともうまくいかなくなると、北方の公孫瓚(こうそんさん)と手を結ぶ。これに対し、袁紹は公孫瓚と不和だったことから南方の劉表と手を結んだ。

2月、董卓が郎中令(ろうちゅうれい)の李儒(りじゅ)に命じ、弘農王の劉辯(りゅうべん。少帝)を毒殺。

2月、董卓が献帝に迫り、長安(ちょうあん)への遷都を強行。洛陽の住民を追い立てて、ことごとく関中(かんちゅう)へ移らせる。一方で董卓は洛陽に留まり、畢圭苑(ひっけいえん)に駐屯した。

3月、董卓が洛陽に火を放つよう命じ、宮廟(きゅうびょう)や民家を焼き尽くす。

3月、董卓により、叔父で太傅(たいふ)の袁隗(えんかい)と兄で太僕(たいぼく)の袁基が殺害され、その一族も皆殺しになる。

-192年-
1月、袁紹と公孫瓚が界橋(かいきょう)で戦い、公孫瓚が大敗。

4月、司徒(しと)の王允(おういん)と尚書僕射(しょうしょぼくや)の士孫瑞(しそんずい)が、呂布と共謀して董卓を誅殺。

6月、李傕(りかく)らが長安を陥す。李傕は袁術を味方に付けようと考え、彼を左将軍(さしょうぐん)に任じたうえ、陽翟侯(ようてきこう)に封じ、節(せつ。権限を示すしるし)を与えた。

この年、袁術は袁紹との間に戦端を開き、公孫瓚に救援を要請。

これを受けて公孫瓚は、劉備(りゅうび)を高唐(こうとう)に、単経(ぜんけい)を平原(へいげん)に、陶謙(とうけん)を発干(はっかん)に、それぞれ送り込む。しかし、袁紹と曹操の連合軍にみな討ち破られてしまった。

-193年-
?月、荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表に糧道が断たれる。袁術は軍勢をひきいて陳留郡へ進攻し、封丘(ほうきゅう)に駐屯。黒山(こくざん)の残党と匈奴(きょうど)の於夫羅(おふら)らの支援を受けた。

?月、曹操が匡亭(きょうてい)に攻め寄せる。袁術自ら駆けつけたものの大破され、封丘に退却。この後もたびたび曹操と戦って敗れ、襄邑(じょうゆう)、太寿(たいじゅ)、寧陵(ねいりょう)、九江(きゅうこう)と逃走。

3月、揚州刺史(ようしゅうしし)の陳温(ちんおん)を殺害し、淮南(わいなん)に拠る。

陳温の死については、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『英雄記(えいゆうき)』に異説がある。

10月、公孫瓚が劉虞を殺害。

この年、各地を巡行していた太傅(たいふ)の馬日磾(ばじってい)から節を奪い取り、身柄を拘留。ほどなく馬日磾は死去した。

袁術は若いころから往来のあった、沛国相(はいこくしょう)の陳珪(ちんけい)の助力を得ようと考えて手紙を送った。そして、陳珪の次男の陳応(ちんおう)が下邳(かひ)にいたため、彼を脅して人質に取り、何としても陳珪を呼び寄せようと計る。それでも陳珪は助力を拒み、返書を送ってその旨を伝えてきた。

またこの年、身を寄せてきた孫策(そんさく)を受け入れ、もとの孫堅の部下を返してやる。

-195年-
冬、長安を離れた献帝が李傕と郭汜(かくし)らに追撃され、曹陽(そうよう)で敗れる。袁術は群臣を集め、帝位に即きたいとの考えを述べて意見を求めた。主簿(しゅぼ)の閻象(えんしょう)だけが反対を唱え、このときは沙汰やみになった。

-196年-
7月、献帝が洛陽へ還幸。

8月、曹操の意向に従い、献帝が許(きょ)への遷都を決定。

-197年-
春、「天意を示す瑞兆(ずいちょう)が下った」という河内の張烔(ちょうけい)の説を採り上げ、寿春で帝位を僭称。この際、呂布のもとに使者を遣わし、その旨を伝える。

しかし呂布は袁術の使者を捕らえ、朝廷に書簡を奉った。袁術は立腹して呂布を攻めたものの、討ち破られた。

?月、陳(ちん)に進攻したところ、曹操が討伐に乗り出す。ここでも敗れ、配下の橋蕤(きょうずい)・李豊(りほう)・梁綱(りょうこう)・楽就(がくしゅう)を留めて逃げる。曹操は到着後に橋蕤らを撃破し、みな斬り殺した。

そこで袁術は、さらに淮水(わいすい)を渡って逃走。灊山(せんざん)にいた配下の雷薄(らいはく)と陳蘭(ちんらん)のもとまで行ったが、受け入れてもらえなかった。

-199年-
3月、袁紹が易京(えきけい)の公孫瓚を包囲。公孫瓚は敗北を免れないと悟り、妻子を殺害したのち自殺(生け捕りにされたという異説もある)。

6月、皇帝の称号を譲ったうえで袁紹を頼ろうと考え、青州の袁譚のもとへ向かう道中、病を得て死去。

管理人「かぶらがわ」より

袁術は、袁紹よりずっと前から簒奪(さんだつ)の野心を抱いていたようです。しかも、これは自分の野望を実現したいだけで、民の暮らしを良くしたいとか、戦乱の世を終わらせたいといった類いのものではなかったらしい。

本伝の裴松之注に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書(ごしょ)』には、以下のようにありました。

(197年に曹操に敗れると、)袁術は配下の雷薄や陳蘭らに受け入れを拒まれ、兵糧も尽きたため、寿春から80里離れた江亭(こうてい)まで引き返します。

ちょうど夏の盛りだったので、袁術は蜂蜜入りの飲み物を欲しがりましたが、残っていたのは麦のくずだけ。

彼は寝台に座り、しばらくため息をついた後、大声で叫びます。

「袁術ともあろう者が、このようなザマになったのか!」

そして、1斗余りの血を吐いて死んだということでした。

袁術が雷薄らのもとへ行ったのは197年のこと。その後の199年6月に、袁術は袁譚のもとへ向かう道中で病死したということなので、なぜここで雷薄の話が使われていたのかはわかりませんでしたが、一応載せておきます。

当時から蜂蜜入りの飲み物があったのかと、むしろそちらのほうに興味を引かれました。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました