【姓名】 孫暠(そんこう) 【あざな】 ?
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
孫静(そんせい)の息子
父は孫静だが、母は不詳。孫瑜(そんゆ)・孫皎(そんこう)・孫奐(そんかん)・孫謙(そんけん)は弟。孫綽(そんしゃく)・孫超(そんちょう)・孫恭(そんきょう)という3人の息子がいた。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・虞翻伝〈ぐはんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』には、以下のようにある。
「200年に孫策(そんさく)が亡くなり、孫権(そんけん)が跡を継ぐことが決まった。このとき孫暠は定武中郎将(ていぶちゅうろうしょう)として烏程(うてい)にいたが、配下の軍吏や兵士をひきいて会稽郡(かいけいぐん)を乗っ取ろうとした」
「会稽郡の役所は情報を得ると、民を動員して城の守りを固めつつ、孫権の指示を待ったうえで孫暠のもとへ使者を遣わし、心得違いを告げ諭させた」
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
上で挙げた記事に関連して虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』には、虞翻が孫暠を説得した際の言葉というものが載せられていました。
「討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん。孫策)さまは天寿を全うされることがございませんでした。いま事態を取りまとめて人々をひきいていかれるのは、孝廉(こうれん。孫権)さまこそふさわしいと存じます」
「私は会稽郡の役人や兵士とともに城に立て籠もって守りを固めておりますが、これは危急の時にお役に立てるべき命を投げ出し、孝廉さまのために害を取り除いて差し上げようという願いからです。どうかあなたさまには、よくよくお考えくださいますように」
こう虞翻に言われると、孫暠も引き揚げを決めたのだとか。
孫暠の弟たちのうちで孫瑜・孫皎・孫奐については、『三国志』(呉書・孫静伝)に付される形の伝がありますが、孫暠のものはありません。孫策の死後の一件が影響したのでしょうか?
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