【姓名】 劉琰(りゅうえん) 【あざな】 威碩(いせき)
【原籍】 魯国(ろこく)
【生没】 ?~234年(?歳)
【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉琰伝』あり。
美貌の妻が早く帰ってこなかったばかりに……
父母ともに不詳。
劉琰は、劉備(りゅうび)が豫州(よしゅう)にいたころ(どの時期を指しているのか不明)に召されて従事(じゅうじ)となる。
彼は劉備と同姓で風流なところがあり、談論も得意だったため、親愛を得て厚遇された。劉備に付き従って各地を巡ったが、いつも賓客としてそば近くにあったという。
214年、劉備が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、劉琰は固陵太守(こりょうたいしゅ)に任ぜられる。
223年、劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと、劉琰は都郷侯(ときょうこう)に封ぜられ、席次は李厳(りげん)の次位とされた。
衛尉(えいい)、中軍師(ちゅうぐんし)、後将軍(こうしょうぐん)を歴任した後、車騎将軍(しゃきしょうぐん)に昇進。
だが劉琰は国政に関わらず、1千余人の兵士を配下に置き、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)に随行して批評や議論をするだけだった。
また、車馬・衣服・飲食が奢侈(しゃし)なことでも知られ、彼に仕える数十人の侍婢(じひ)はみな歌や音楽をよくし、(王逸〈おういつ〉の)「魯霊光殿賦(ろのれいこうでんのふ)」を暗唱することができたという。
232年、劉琰は前軍師(ぜんぐんし)の魏延(ぎえん)と仲たがいし、でたらめを言ったため諸葛亮から問責される。
それでもこのとき送った謝罪の手紙が認められ、成都に召し還されるだけで済み、官位を貶(おと)されることもなかった。ただ劉琰は志を失い、ぼんやりしていることが多くなった。
234年1月、劉琰の妻の胡氏(こし)が、呉太后(ごたいこう)への年賀のために参内する。ところが呉太后が、特に彼女を気に入って留め置いたので、胡氏はひと月も経ってから帰ってきた。
胡氏が美人だったこともあり、劉琰は、妻が劉禅と私通したのではないかと疑い、吏卒を呼んで彼女を鞭(むち)打たせ、履物で顔を叩かせたうえで離縁した。
後に胡氏が詳細を訴え出たところ、劉琰は投獄され、市場において処刑された。この事件以降、大臣の妻や母が、朝賀に参内する風習は絶えたという。
管理人「かぶらがわ」より
劉琰が劉備に仕え始めたのは190年代でしょうから、死去するまでに40年前後の長いキャリアがあったことになります。
とはいえ、本伝で功績らしいことに触れられておらず、なぜ彼が要職を歴任できたのかよくわかりませんでした。
妻の胡氏の一件は、きっかけを作った呉太后にも責任があると思います。
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