張郃(ちょうこう) ※あざなは儁乂(しゅんがい)、魏(ぎ)の鄚壮侯(ばくそうこう)

【姓名】 張郃(ちょうこう) 【あざな】 儁乂(しゅんがい)

【原籍】 河間郡(かかんぐん)鄚県(ばくけん)

【生没】 ?~231年(?歳)

【吉川】 第087話で初登場。
【演義】 第022回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張郃伝』あり。

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戦功てんこ盛り、鄚壮侯(ばくそうこう)

父母ともに不詳。息子の張雄(ちょうゆう)は跡継ぎで、ほかにも多くの息子がいたことがうかがえる。

184年、張郃は黄巾(こうきん)討伐の募兵に応じて軍の司馬(しば)となり、韓馥(かんふく)の配下に属した。

191年、韓馥が冀州牧(きしゅうぼく)の地位を袁紹(えんしょう)に奪われると、張郃は手勢を連れて袁紹のもとに身を寄せ、校尉(こうい)として公孫瓚(こうそんさん)を防ぐ。

199年、袁紹が公孫瓚を撃破し自害に追い込むと、張郃は多大な功績が評価され、寧国中郎将(ねいこくちゅうろうしょう)に昇進した。

翌200年、袁紹が官渡(かんと)で曹操(そうそう)と対峙(たいじ)したとき、将軍の淳于瓊(じゅんうけい)らに輜重(しちょう)の監督を命じ、烏巣(うそう)に軍需物資を蓄えさせる。

その烏巣が曹操の急襲を受けると、張郃はすぐに救援すべきだと主張した。

ところが郭図(かくと)は反対し、いま敵の本営を攻めれば、曹操は引き返すに違いないと述べた。

張郃は重ねて烏巣の重要性を説いたものの容れられず、袁紹は軽装の騎兵に淳于瓊の救援を命ずる一方、重装の兵をもって曹操の本営を攻めさせる。

しかし曹操の本営を陥すことはできず、烏巣の淳于瓊も敗れたため袁紹軍は崩壊した。

郭図は面目を失い、張郃を讒言(ざんげん)する。張郃は身の危険を感じて曹操に降った。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に以下の指摘があった。「(『三国志』の)『魏書・武帝紀(ぶていぎ)』および『袁紹伝』を調べてみると、どちらも次のように言っている。『袁紹は張郃と高覧(こうらん)に曹操の軍営を攻撃させた。張郃らは淳于瓊が敗れたことを聞き、結局は投降した。その結果、袁紹の軍勢は完全に崩れ去った。そういうことなら、張郃らの降伏が原因となり、その後に袁紹軍が崩壊したことになる。しかし、この列伝(魏書・張郃伝)では袁紹の軍勢が先に崩れ、郭図の讒言を心配した張郃が、その後に曹操に降伏したとしている。これは(記述が)混乱していて統一がないと言える」

曹操は張郃を得て大いに喜び、偏将軍(へんしょうぐん)に任じたうえ都亭侯(とていこう)に封じた。

204年、張郃は鄴(ぎょう)攻めに参加し陥落に貢献。

翌205年、南皮(なんぴ)での袁譚(えんたん)攻めに加わった後、別軍として雍奴(ようど)を包囲し、これを散々に討ち破る。

207年、柳城(りゅうじょう)の袁尚(えんしょう)討伐に参加した際、張遼(ちょうりょう)とともに先鋒を務め、功により平狄将軍(へいてきしょうぐん)に昇進。

続いて別軍として東萊(とうらい)に遠征し、海賊の管承(かんしょう)を討伐する。

後に陳蘭(ちんらん)と梅成(ばいせい)が氐族(ていぞく)の住む6県を挙げて背くと、張郃は張遼らとともに撃破した。

211年、張郃は曹操に付き従い、渭南(いなん)で馬超(ばちょう)や韓遂(かんすい)を討ち破り、安定(あんてい)を包囲して楊秋(ようしゅう)を降す。

翌212年、張郃は夏侯淵(かこうえん)とともに、鄜(ふ)の賊徒である梁興(りょうこう)および武都(ぶと)の氐族を討伐した。

214年、再び馬超を撃破したうえ、「河首平漢王(かしゅへいかんおう)」を自称していた宋建(そうけん)を平らげる。

翌215年、曹操が張魯(ちょうろ)を討伐したとき、まず張郃が朱霊(しゅれい)らとともに諸軍をひきい、興和(こうか)の氐王の竇茂(とうぼう)を討伐する。

そして曹操が散関(さんかん)から漢中(かんちゅう)へ入るときも、再び張郃が5千の兵をひきいて先行し道路を通じた。

張魯の降伏後、曹操は帰還にあたり、張郃と夏侯淵らを留め置いて漢中を守らせる。

その後、張郃は別軍をひきいて巴東(はとう)と巴西(はせい)の両郡を攻略。両郡の住民を漢中へ移住させた。

翌216年、宕渠(とうきょ)まで進軍したものの、劉備(りゅうび)配下の張飛(ちょうひ)の抵抗に遭って南鄭(なんてい)へ引き返す。

後に張郃は盪寇将軍(とうこうしょうぐん)に任ぜられた。

218年、劉備が陽平(ようへい)に駐屯した際、張郃は広石(こうせき)に駐屯する。

劉備は1万の精兵を10部に分けて夜襲を仕掛けた。張郃は親衛兵をひきいて白兵戦を行い、これを撃退した。

翌219年、劉備軍に走馬谷(そうばこく)の守備陣が焼かれると、夏侯淵が救援に向かう。

しかし夏侯淵は道中で敵と遭遇し、白兵戦の末に戦死した。これを受け、張郃は陽平に引き返す。

総指揮官を失ってみな動揺したが、夏侯淵配下の司馬の郭淮(かくわい)に推され、張郃がその役目を代行することになった。

このとき長安(ちょうあん)にいた曹操は、すぐ使者を遣って張郃に節(せつ。権限を示すしるし)を授けた。

ほどなく曹操も漢中に到着するが、劉備は高山に立て籠もり戦おうとしない。

そこで曹操は漢中の諸軍を引き揚げ、張郃が陳倉(ちんそう)に駐屯することになった。

翌220年2月、曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと張郃は左将軍(さしょうぐん)に昇進し、都郷侯(ときょうこう)に爵位が進む。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、さらに鄚侯に爵位が進んだ。

翌221年、張郃は詔(みことのり)を受け、曹真(そうしん)とともに安定の盧水胡(ろすいこ。盧水の蛮族)と東羌(とうきょう。羌族の一派)を討伐。

翌222年、張郃は召されて許(きょ)の宮殿に参内し、夏侯尚(かこうしょう)とともに江陵(こうりょう)攻めを命ぜられる。

張郃は別軍をひきいて長江(ちょうこう)を渡り、中州にある砦(とりで)を奪った。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、張郃は荊州(けいしゅう)に駐屯し、司馬懿(しばい)とともに孫権(そんけん)配下の劉阿(りゅうあ)らと戦う。これを祁口(きこう)まで追撃して討ち破った。

228年、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)に侵出してくる。

張郃は特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)の位を授かり、諸軍をひきいて蜀将の馬謖(ばしょく)を街亭(がいてい)で防ぐ。

馬謖は南山(なんざん)に拠り、山下の砦には立て籠もらなかった。

そこで張郃は、敵が水をくむ通路を断ち切ったうえ、攻撃を加えて散々に討ち破る。

南安(なんあん)・天水(てんすい)・安定の諸郡は背いて諸葛亮に呼応していたが、張郃はこれらもすべて平定した。

曹叡の詔により1千戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は4,300戸となる。

司馬懿は荊州で水軍を整え、沔水(べんすい)から長江へ入って呉(ご)を討伐したいと考えた。

詔により、張郃は関中(かんちゅう)の諸軍を指揮して荊州へ向かい、司馬懿の指図を受けることになる。

ところが張郃が荊州に着くと、冬期につき水位が低く、大型船を使うことができない。そこで引き返して方城(ほうじょう)に駐屯した。

同年12月、陳倉が諸葛亮の急襲を受けると張郃は洛陽(らくよう)へ召される。このとき彼には駅馬が支給された。

曹叡自ら河南城(かなんじょう)まで行幸し、張郃のために宴席を設け、3万の軍勢と武衛(ぶえい)や虎賁(こほん)といった近衛兵を分け与える。

この際、曹叡は陳倉の陥落を心配したが、張郃はこう答えた。

「臣(わたくし)が到着しないうちに諸葛亮は去っておりましょう。指を折り彼の兵糧を計算してみると、残りは10日分を超えないでしょう」

張郃が昼夜兼行で南鄭に着くと、やはり諸葛亮は引き揚げていた。張郃は洛陽に帰還し、征西車騎将軍(せいせいしゃきしょうぐん)に任ぜられた。

231年、またも諸葛亮が祁山に侵出すると、張郃は諸将を指揮して西方の略陽(りゃくよう)へ向かう。

やがて諸葛亮は漢中へ引き揚げたが、張郃は後を追い、木門(ぼくもん)で交戦する。

このとき張郃は右膝に矢を受けて戦死した。壮侯と諡(おくりな)され、息子の張雄が跡を継いだ。

張郃は前後にわたり何度も戦功を立てたので、曹叡は彼の封邑を分け、その4人の息子たちを列侯(れっこう)に、末の息子を関内侯(かんだいこう)に、それぞれ封じた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると「張郃は変化の法則をわきまえ、よく軍営をまとめ、戦況や地形に考えを巡らせ、計算通りに行かないことがなかった」といい、「諸葛亮以下、みな彼を恐れ憚(はばか)った」とありました。

また、武将でありながら儒学者をかわいがったそうで、同郷の卑湛(ひたん)を推挙して博士(はくし)に取り立ててもらったこともあります。

張郃が曹操に降った真相はイマイチわかりませんでしたが、その後の活躍はお見事。失点らしいものは、宕渠で張飛に不覚を取ったことぐらいで、魏への貢献度は非常に大きい。

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