于禁(うきん) ※あざなは文則(ぶんそく)

【姓名】 于禁(うきん) 【あざな】 文則(ぶんそく)

【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)鉅平県(きょへいけん)

【生没】 ?~221年(?歳)

【吉川】 第043話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・于禁伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

評価を一変させた関羽(かんう)への投降、諡号(しごう)は厲侯(れいこう)

父母ともに不詳。息子の于圭(うけい)は跡継ぎ。

184年、黄巾(こうきん)の乱が起こると、于禁は鮑信(ほうしん)の募兵に応じた。

192年、曹操(そうそう)が兗州(えんしゅう)を治めると、于禁は仲間を連れて合流する。このとき都伯(とはく。部隊長)として将軍の王朗(おうろう)の下に配属された。

王朗は于禁を評価し、「彼の才能なら大将軍(だいしょうぐん)を任せられる」と言って推薦した。

そこで曹操は于禁を引見して軍司馬(ぐんしば)に任じ、兵をひきいて徐州(じょしゅう)へ行かせ、広威(こうい)への攻撃を命ずる。

于禁は広威の攻略に成功し、陥陣都尉(かんじんとい)に昇進した。

194年の濮陽(ぼくよう)での呂布(りょふ)攻めに参加し、別軍として城南のふたつの敵営を撃破。また別軍の将として、須昌(しゅしょう)で呂布配下の高雅(こうが)も討ち破る。

翌195年?の寿張(じゅちょう)・定陶(ていとう)・離狐(りこ)への攻撃、雍丘(ようきゅう)での張超(ちょうちょう)包囲戦にも参加し、すべての陥落に貢献した。

翌196年、黄巾の劉辟(りゅうへき)および黄邵(こうしょう)らの討伐に加わり、版梁(はんりょう)に駐屯したとき曹操の軍営が夜襲を受ける。

于禁は直属の兵を指揮して撃退すると、黄邵らを斬って配下の軍勢を降伏させ、平虜校尉(へいりょこうい)に昇進した。

翌197年の苦(こ)での橋蕤(きょうずい)包囲戦では、橋蕤以下の4人の将軍を斬る。次いで曹操に付き従って宛(えん)まで行き、張繡(ちょうしゅう)を降した。

だが、ほどなく張繡が背き、曹操は敗れて舞陰(ぶいん)へ引き返す。このときは軍が混乱し、おのおの間道を通って曹操の行方を捜したほどだった。

それでも于禁だけは、配下の数百人を指揮して戦いながら引き揚げる。死傷者は出たものの離散者はいなかった。そして敵の追撃が弱まると、おもむろに隊列を整え、太鼓を打ち鳴らして帰還した。

曹操のところまで行き着く途中、けがをして裸で逃げる10余人の兵に遭遇する。事情を聞くと、青州兵(せいしゅうへい)の略奪に遭ったとのことだった。

以前(192年)、降伏した黄巾賊をもって青州兵が組織され、曹操から寛大な扱いを受けていた。青州兵はこれに付け込み、平気で略奪を働くようになった。

腹を立てた于禁は青州兵を懲らしめ、その罪を責め立てる。青州兵は曹操のもとへ逃げ込んで訴えた。

しかし于禁は到着後すぐに軍営を設け、曹操への謁見は後回しにした。

ある者が于禁に注意する。

「すでに青州兵は、あなたさまのことを訴えております。早く殿のところへお行きになり、この件をはっきりさせる必要がありましょう」

于禁は応えた。

「いま賊軍は我らの背後にある。まもなく追撃してくるだろう。まず備えを整えなければ、どうやって対処するのだ」

「それに殿は聡明(そうめい)であられる。でたらめの訴えが何の役に立とうか」

こうして塹壕(ざんごう)を掘って軍営が整うと、ようやく于禁は曹操に謁見を求め、実情を詳しく説明する。

曹操は喜び、于禁の前後にわたる戦功を採り上げて益寿亭侯(えきじゅていこう)に封じた。

その後も于禁は曹操に付き従い、穣(じょう)で張繡を攻め、翌198年には下邳(かひ)で呂布と戦う。

翌199年、別軍として曹仁(そうじん)や史渙(しかん)とともに、射犬(しゃけん)で眭固(すいこ)を討ち取った。

曹操が初めて袁紹(えんしょう)と戦ったとき、敵の軍勢は盛んだったが、于禁は先陣を望んで出る。

その意気が認められ、于禁は2千の歩兵をもって延津(えんしん)を守り、袁紹軍を防いで曹操が官渡(かんと)を渡るのを助けた。

後に劉備(りゅうび)が徐州に拠って背くと、翌200年、曹操は討伐のため東へ向かう。この間に袁紹の攻撃を受けたものの、于禁は延津を固守し続けた。

次いで楽進(がくしん)らと歩騎5千をひきい、袁紹の別営を攻める。

さらに延津から西南へ向かい、黄河(こうが)に沿って汲(きゅう)および獲嘉(かくか)の両県まで行き、30余か所の敵営を焼き払った。

このときに斬った首と捕虜はそれぞれ数千。袁紹配下の将軍の何茂(かぼう)や王摩(おうま)ら20余人も降す。

その後、于禁は別軍をひきいて原武(げんぶ)に駐屯。杜氏津(とししん)にあった袁紹の別営を撃破した。裨将軍(ひしょうぐん)に昇進し、曹操に付き従って官渡へ戻る。

曹操が官渡の戦いで勝利を収めると、于禁は偏将軍(へんしょうぐん)に昇進した。

206年、再び昌豨(しょうき。昌霸〈しょうは〉)が背くと、于禁が急いで討伐に向かう。昌豨は彼の旧知だったこともあり、出頭して降伏を願い出た。

みな降伏した昌豨を曹操のもとに送るよう主張したが、于禁は言った。

「諸君は殿の常令を知らないのか? 包囲された後で降伏した者は許さない、とある」

「法を奉じて命令を実行するのは、お上に仕える者の守るべき節義である。昌豨は旧友だが、そのことで私が節義を失ってよいものか」

こうして自ら出向いて別れを告げると、涙を流しながら昌豨を斬った。

于禁は曹操の上奏により、楽進や張遼(ちょうりょう)ともども功績を評価され、虎威将軍(こいしょうぐん)に任ぜられる。

208年?、于禁は臧霸(そうは)らとともに梅成(ばいせい)の討伐にあたる。同じく張遼や張郃(ちょうこう)らは陳蘭(ちんらん)を討伐した。

于禁が到着すると、梅成は3千余の軍勢を挙げて降伏したが、ほどなく背き陳蘭と合流してしまう。

于禁は陳蘭と対峙(たいじ)していた張遼らへの兵糧の輸送に努め、彼らが陳蘭と梅成を斬るのを助けた。この功により200戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1,200戸となる。

やがて于禁は節鉞(せつえつ。軍権を示す旗とまさかり)を授けられ、封邑から500戸を分ける形で息子のひとりが列侯(れっこう)に封ぜられた。

219年、樊(はん)の曹仁が劉備配下の関羽の攻撃を受ける。この際、于禁も援軍をひきいて樊へ向かった。

この年の秋はひどい大雨になり、漢水(かんすい)が氾濫する。平地には数丈の水が溜まり、于禁らの7軍は水没してしまう。

于禁が諸将と高地に登っていたところへ、関羽が大型船に乗って攻めかけてくる。

于禁は降伏したが、同じく援軍に駆けつけて捕らえられた龐悳(ほうとく)は、忠節を曲げることなく処刑された。

これを聞いた曹操は長大息して言う。

「私が于禁を知ってから30年になる。その彼が危難を前にして、かえって龐悳にも及ばぬとは思いも寄らなかった……」

たまたま孫権(そんけん)が関羽を捕らえ、その配下の軍勢を捕虜としたので、于禁の身柄は呉(ご)へ移されることになった。

翌220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと孫権は藩国の礼を執り、翌221年には于禁を魏へ帰国させる。

曹丕が引見すると、于禁はひげも髪も真っ白で、げっそりとやつれていた。于禁は涙を流し、地に頭を打ちつけ拝礼したが、曹丕は故事を引いて慰め諭すと安遠将軍(あんえんしょうぐん)に任じた。

そして呉へ使者として遣わすと言い、その前に鄴へ行き、高陵(こうりょう。曹操の陵)に参拝するよう命ずる。

このとき曹丕はあらかじめ陵の建物に、関羽が戦いに勝って龐悳が憤怒し、一方で于禁が降伏しているさまを描かせておいた。

于禁はそれを見ると、面目なさと腹立ちのあまり病気となり、そのまま死去したという。厲侯と諡(おくりな)され、息子の于圭が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には以下のようにありました。

「于禁は張遼・楽進・張郃・徐晃(じょこう)とともに名将のひとりとして数えられており、曹操が討伐に向かうたび代わるがわる起用され、進撃するときは先鋒を務め、帰還するときは殿軍(しんがり)を務めた」

「于禁が軍に臨む態度は厳格で、(鹵獲〈ろかく〉した)賊の財貨を私物化することがない。このため彼への賞賜は特に手厚いものだった。だが、彼は法によって配下を統御したので、兵や民の心をつかむことができなかった」

于禁の堅物ぶりがうかがえますが、これはこれで称賛に値する態度と言えましょう。ですが関羽に降伏したことで、彼の事績は一遍に台なしになってしまいました。

ただ、于禁が魏へ帰国した後の曹丕の対応もどうなのか?

誰かの入れ知恵だったのかもしれませんけど、わざわざ辱めるぐらいなら、むしろ自害でも命じたほうがよかったのでは――。

しかも彼の息子の于圭に跡を継ぐことを認め、益寿亭侯に封じているのですよね。

曹丕の処遇には一貫したところがなく、ちょっと理解に苦しみます。先代(曹操)からの愛憎が交錯していたという背景もあるのでしょうか。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました