韓当(かんとう) ※あざなは義公(ぎこう)

【姓名】 韓当(かんとう) 【あざな】 義公(ぎこう)

【原籍】 遼西郡(りょうせいぐん)令支県(れいしけん)

【生没】 ?~226年(?歳)

【吉川】 第031話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・韓当伝』あり。

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孫氏(そんし)3代(孫堅〈そんけん〉・孫策〈そんさく〉・孫権〈そんけん〉)に仕え、よく将士の心をつかんだ宿将

父母ともに不詳。韓綜(かんそう)という息子がいた。

韓当は弓術や馬術に秀で、腕力もあったため孫堅に気に入られ、各地の討伐に付き従うようになる。たびたび危険を犯して敵陣を陥し、捕虜を得たので、功により別部司馬(べつぶしば)に任ぜられた。

後に孫策が江東(こうとう)へ渡ると、韓当は、会稽(かいけい)・呉・丹楊(たんよう)の3郡の討伐に参加。先登校尉(せんとうこうい)に昇進し、兵2千人と騎馬50頭を授かった。

199年、韓当は孫策に付き従い、尋陽(じんよう)で劉勲(りゅうくん)を討伐する。

203年、韓当は孫権の黄祖(こうそ)討伐に付き従い、その帰途で鄱陽(はよう)を討伐した。

韓当は楽安県長(らくあんけんちょう)に任ぜられたが、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)は彼の威を恐れてよく従ったという。

208年、韓当は中郎将(ちゅうろうしょう)として、周瑜(しゅうゆ)らとともに曹操(そうそう)を烏林(うりん)で撃破(赤壁〈せきへき〉の戦い)する。

さらに呂蒙(りょもう)らとともに南郡(なんぐん)の曹仁(そうじん)を攻め、翌209年には撤退に追いやる。

韓当は一連の功により偏将軍(へんしょうぐん)に昇進し、(名目上の)永昌太守(えいしょうたいしゅ)を兼ねた。

221年、韓当は、劉備(りゅうび)の東進を陸遜(りくそん)や朱然(しゅぜん)らとともに迎え撃ち、涿郷(たくきょう)で大破。威烈将軍(いれつしょうぐん)に転じて都亭侯(とていこう)に封ぜられる。

翌222年、魏(ぎ)の曹真(そうしん)らが南郡に攻め寄せた際、韓当は城の東南を守りきった。

翌223年、韓当は昭武将軍(しょうぶしょうぐん)・冠軍太守(かんぐんたいしゅ)に昇進し、石城侯(せきじょうこう)に爵位が進む。さらに都督(ととく)の称号も加えられる。

後に韓当は、敢死軍(かんしぐん)や解煩軍(かいはんぐん)といった特別部隊の1万人をひきいて丹楊の反乱を平定した。そして226年に病死し、息子の韓綜が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、韓当は地方へ出て軍勢の指揮を執る場合、よく将士を励まして心をひとつに合わせたそうです。

また、中央から遣わされた目付け役の意見を重んじ、法令の順守にも努めたため、孫権から評価されたのだと。

ところが韓当の跡を継いだ韓綜は素行が悪く、父の存命中こそ大目に見られていたものの、その父が亡くなったことで、一転して処罰を受けるのではないかと不安を抱きます。

そこで韓綜は父の葬儀にかこつけ、(227年に)母方の親戚や数千の部曲(ぶきょく。私兵)を引き連れ、魏に降伏してしまいました。

韓綜は特にひどい例だと思いますが、呉の宿将の息子たちには、総じて活躍した人物が少ないですよね。ちょっと不思議な感じ……。

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