【姓名】 張休(ちょうきゅう) 【あざな】 叔嗣(しゅくし)
【原籍】 彭城国(ほうじょうこく)
【生没】 ?~?年(41歳)
【吉川】 第291話で初登場。
【演義】 第098回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・張昭伝(ちょうしょうでん)』に付された「張休伝」あり。
孫霸派(そんはは)の讒言(ざんげん)を受けての死
父は張昭だが、母は不詳。張承(ちょうしょう)は兄。このほかにも兄がいた可能性が高い。
張休は20歳のころ、諸葛恪(しょかつかく)・顧譚(こたん)・陳表(ちんぴょう)らとともに王太子の孫登(そんとう)の僚友(りょうゆう。太子の友人として出仕する者)に選ばれ、『漢書(かんじょ)』の講義をする。彼ら4人は「太子四友」と称された。
★孫登が呉の王太子に立てられた221年のことと思われる。
229年、孫権(そんけん)が帝位に即くと、孫登は皇太子に立てられ、張休は太子中庶子(たいしちゅうしょし)から右弼都尉(ゆうひつとい)に転じた。
たびたび孫権は狩猟に出かけ、夕方まで帰らないことが多かった。張休は上疏して諫めたが、このときの文章がよくできていたので、孫権は張昭に見せたほどだったという。
236年、張昭が死去すると、すでに兄の張承は侯(こう)に封ぜられていたため、張休が父の爵位を継ぎ、婁侯(ろうこう)に封ぜられた。
241年、孫登が薨去(こうきょ)すると、張休は皇太子府を離れて侍中(じちゅう)となり、羽林都尉(うりんとい)・平三典軍事(へいさんてんぐんじ。中央軍の指揮官)に任ぜられ、揚武将軍(ようぶしょうぐん)に昇進した。
翌242年、孫和(そんか)が皇太子に立てられた後、弟で魯王(ろおう)の孫霸との間で国を二分した勢力争いが起こる。
孫霸派の全寄(ぜんき)や楊竺(ようじく)らは毎日のように讒言を行い、孫和派の重臣たちを陥れた。
その結果、張休は顧承(こしょう)らともども交州(こうしゅう)へ配流されてしまう。
さらに張休は中書令(ちゅうしょれい)の孫弘(そんこう)からも讒訴を受け、孫権の詔(みことのり)が下されて自殺(時期は不明)した。このとき41歳だったという。
管理人「かぶらがわ」より
いずこの国にも讒言はあったのでしょうが、孫登を亡くした後の孫和と孫霸の扱いなど、晩年の孫権には不可解な判断が目立ちます。
孫登が帝位を継げていれば、張休もこのような最期にはならなかったのでしょうね。
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