呂岱(りょたい)

【姓名】 呂岱(りょたい) 【あざな】 定公(ていこう)

【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)海陵県(かいりょうけん)

【生没】 161~256年(96歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・呂岱伝』あり。

武功と徳行をたたえられた呉の亀鑑(きかん)

父母ともに不詳。息子の呂凱(りょかい)は跡継ぎ。

呂岱は初め郡吏や県吏を務めていたが、やがて戦乱を避け江南(こうなん)へ移住した。

200年、孫策(そんさく)の急死に伴い孫権(そんけん)が跡を継ぐと、呂岱はその将軍府に赴き「呉県丞(ごけんのじょう)」に任ぜられる。

孫権は自ら諸県の倉庫や囚人らの裁断にあたり、その際は県長(けんちょう)や県丞が下問に答えたが、呂岱の受け答えは大いに気に入られた。そこで召し還され、将軍府で「録事(ろくじ)」を務めることになった。

その後、呂岱は地方へ出て「余姚県長(よようけんのちょう)」に任ぜられると、精兵を募り1千余人を得る。

会稽(かいけい)および東冶(とうや)の5県の不服従民が呂合(りょごう)や秦狼(しんろう)らを立てて反乱を起こすと、呂岱は「督軍校尉(とくぐんこうい)」に任ぜられ、将軍(しょうぐん)の蔣欽(しょうきん)らとともに討伐に向かう。

呂合と秦狼は難なく捕らえられ、5県は平定された。呂岱はこの功により「昭信中郎将(しょうしんちゅうろうしょう)」に任ぜられた。

215年、呂岱は孫茂(そんぼう)ら10人の部将をひきいて軍勢を進め、長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡を占領する。

また、安成(あんせい)・攸(ゆう)・永進(えいしん)・茶陵(やりょう)の4県の県吏が共謀し陰山城(いんざんじょう)に立てこもり、人数を集めて抵抗した。

しかし呂岱が攻囲するとみなすぐに降伏し、3郡は孫権の支配下に入った。呂岱は長沙にとどまり周辺の鎮撫(ちんぶ)にあたることになった。

その後、安成県長の呉碭(ごとう)と中郎将の袁龍(えんりょう)らが、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)と通じ再び反乱を起こし、呉碭は攸県に、袁龍は醴陵(れいりょう)に、それぞれ拠る。

横江将軍(おうこうしょうぐん)の魯粛(ろしゅく)が攸県を攻めたものの、呉碭は攻囲を突破し逃走した。一方で呂岱は醴陵を攻め、難なく袁龍を捕斬する。この功により「廬陵太守(ろりょうのたいしゅ)」に昇進した。

220年、呂岱は歩騭(ほしつ)に代わり「交州刺史(こうしゅうのしし)」となる。着任後、高涼(こうりょう)の不服従民の頭目の銭博(せんはく)が降伏を願い出たため、呂岱は孫権の許しを得たうえで銭博を「高涼西部都尉(こうりょうせいぶとい)」に任じた。さらに鬱林(うつりん)の異民族の不服従民が郡県を攻囲すると、呂岱はこれを討伐した。

次いで孫権の命を受け反徒の王金(おうきん)の討伐にもあたり、王金を生け捕り都へ送る。このとき1万余人を斬ったり捕らえたりしたが、この功により「安南将軍(あんなんしょうぐん)・仮節(かせつ)」に昇進し「都郷侯(ときょうこう)」に封ぜられた。

226年、交阯太守(こうしたいしゅ。交趾太守)の士燮(ししょう)が死去すると、孫権は士燮の息子の士徽(しき)を「安遠将軍(あんえんしょうぐん)」に任じ、「九真太守(きゅうしんのたいしゅ)」を兼ねさせた。そして、校尉の陳時(ちんじ)を「交阯太守」に起用しようとした。

呂岱は上表して許しを得、海南(かいなん)の3郡を分割して「交州」とし、将軍の戴良(たいりょう)を「交州刺史」に任ずる。また海東(かいとう)の4郡を「広州(こうしゅう)」とし、自ら「広州刺史」に就任した。

だが、戴良と陳時が任地へ向かうも士徽が命令に従わず、軍勢を動かし海口(かいこう)の守りを固め、ふたりの着任を阻もうとする。呂岱は上疏して士徽の討伐を願い出ると、3千の軍勢をひきいて海上を急ぎ、合浦(ごうほ)で戴良と合流した。

あわてた士徽は兄弟6人を引き連れ、肌脱ぎになり(降伏の意)呂岱らを出迎えたものの、結局みな処刑されてしまった。

その後、士徽配下の部将だった甘醴(かんれい)や桓治(かんち)らが吏民をひきいて攻め寄せると、呂岱はこれを迎え撃ち大破した。一連の功により「番禺侯(ばんぐうこう)」に爵位が進む。こうしてこの地が安定を取り戻すと広州は廃止され、もとの交州に戻された。

呂岱は交州を平定した後、軍勢を進めて九真も討伐し、何万人もの不服従民を斬ったり捕らえたりした。

そのうえで南方へ従事(じゅうじ。官名)を遣り、孫権の教化を広めたところ、遠く扶南(ふなん)・林邑(りんゆう)・堂明(どうめい)の諸王から献上品が届くようになる。孫権は呂岱の功を嘉(よみ)し「鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)」に昇進させた。

231年、南方の地域が安定してきたことから、呂岱は召し還されて長沙の漚口(おうこう)に駐屯するよう命ぜられる。

このころ武陵(ぶりょう)の異民族が不穏な動きを見せたため、呂岱は太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)とともに討伐にあたり、これを平定した。

234年、呂岱はこの年に死去した潘璋(はんしょう)の軍勢を引き継ぎ、陸口(りくこう)に駐屯。のち蒲圻(ほき)に移駐した。

翌235年、廬陵の李桓(りかん)と路合(ろごう)、会稽の随春(ずいしゅん)、南海(なんかい)の羅レイ(られい。厂+萬)らが一斉に蜂起する。呂岱は孫権の詔(みことのり)を受け、劉纂(りゅうさん)や唐咨(とうし)らと手分けして討伐にあたる。

ほどなく随春が降伏すると、呂岱は彼を「偏将軍(へんしょうぐん)」に任じ、それまでの配下の指揮を許す。一方で李桓や羅レイらは斬られたり捕らえられたりし、その首が都へと送られた。孫権は功績を高く評価し、呂岱が制度の範囲内で自由に行賞を実施することを認めた。

239年、潘濬が死去すると呂岱が代わって荊州(けいしゅう)の公文書を決裁し、陸遜(りくそん)ともども武昌(ぶしょう)にあり、以前のように蒲圻の駐屯軍も監督した。

そのうち廖式(りょうしょく)が反乱を起こし、零陵・蒼梧(そうご)・鬱林といった諸郡を騒がせる。呂岱は上表して討伐を願い出ると、すぐに昼夜兼行で軍勢を進めた。孫権は呂岱を「交州牧(こうしゅうのぼく)」とし、唐咨ら諸将に後援を命じた。

反乱軍は1年ほどで壊滅。廖式や彼が勝手に任命した臨賀太守(りんがたいしゅ)の費楊(ひよう)らも斬られ、配下の者たちは呉軍に編入された。

こうして郡県がことごとく平定されると呂岱は武昌へ戻った。このとき彼は80歳になっていたが、質素を心がけて仕事に励み、なお自ら職務をこなしたという。

245年、陸遜が死去し諸葛恪(しょかつかく)がその任を引き継ぐと、孫権は武昌を左右の両部に分けたうえ呂岱を「右部督(ゆうぶとく)」とし、武昌から上流の蒲圻までの地域を統括させる。

翌246年、呂岱は「上大将軍(じょうだいしょうぐん)」に昇進し、息子で副軍校尉(ふくぐんこうい)の呂凱とともに蒲圻の兵士を監督した。

252年、孫亮(そんりょう)が帝位を継ぐと、呂岱は「大司馬(だいしば)」に任ぜられた。

256年、呂岱は96歳で死去し、息子の呂凱が跡を継ぐ。呂凱は父の遺言に従い、葬儀を簡素に執り行った。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、呂岱はひたすら公務に励み、様々な分野で採り上げるに足る功績があったそうです。

また、呂岱が交州へ赴任していた間、家族に何年も仕送りをしなかったため、妻子は食べ物にも困る状況に陥ったといい、これを知った孫権が(呂岱の家族への配慮を求めなかった)群臣を責め、毎年一定の銭・米・絹を下賜することにしたのだとか。

90歳を過ぎての「大司馬」就任にも驚かされますが、その活躍ぶりは「生涯現役」を見事に体現したものでした。それなのに『吉川版』には登場しませんし、『演義』でも終盤の第108回に名が見えている程度。両者における呂岱の扱われ方はちょっと残念ですね。

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