張松(ちょうしょう)B ※劉璋(りゅうしょう)配下の別駕従事(べつがじゅうじ)

【姓名】 張松(ちょうしょう) 【あざな】 永年(えいねん)

【原籍】 蜀郡(しょくぐん)

【生没】 ?~212年(?歳)

【吉川】 第187話で初登場。
【演義】 第060回で初登場。
【正史】 登場人物。

劉備(りゅうび)の益州(えきしゅう)入りの立役者ながら……

父母ともに不詳。張粛(ちょうしゅく)は兄。息子の張表(ちょうひょう)については張粛の子ともあり、イマイチはっきりしない。

張松は益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)に仕え、「別駕従事(べつがじゅうじ)」を務めていた。

208年、劉璋の命を受け曹操(そうそう)のところへ使いしたが、このとき曹操は荊州(けいしゅう)を平定し劉備を敗走させた後だったため、張松を相手にしなかった。そのため張松は恨みを含んで帰国すると、劉璋に曹操との絶交を勧めたうえ、劉備と結ぶよう進言した。

211年、劉璋の要請を受けた劉備が漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)討伐を名目に益州へ入ると、ふたりは涪(ふう)で会見。この際、張松は親友の法正(ほうせい)を通じ劉備配下の龐統(ほうとう)と連絡を取り、会見の席で劉璋を襲撃すべきだと伝える。だが、劉備の承諾は得られなかった。

翌212年、曹操が孫権(そんけん)討伐に動くと、益州にいる劉備のもとに孫権から救援要請が届く。張松は劉備が(孫権の要請に応じ)荊州へ引き返そうとしていると聞き、手紙を送り真意を尋ねた。

このころ「広漢太守(こうかんのたいしゅ)」を務めていた張粛は、自分に災いが降りかかることを恐れ、弟の企てを劉璋に暴露する。これを受け、張松は捕らえられて処刑された。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璋伝)および『三国志』(蜀書・先主伝〈せんしゅでん〉)によるものです。

また、『三国志』(蜀書・先主伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『益部耆旧雑記(えきぶききゅうざっき)』によると、張松は小柄で、気ままに振る舞い品行を整えることがなかったものの、優れた見識と判断力を備えていたといいます。

彼が曹操のもとを訪れた際、主簿(しゅぼ)の楊脩(ようしゅう)はその人物を高く評価し、曹操に召し抱えるよう勧めますが、これは容れられませんでした。

楊脩から曹操が編纂(へんさん)した兵書を見せられると、張松は宴会の間に目を通しすぐさま暗唱したため、さらに楊脩の評価が高まったのだとも。兵書を暗唱した話は『演義』(第60回)や『吉川版』(第188話)でも使われていました。

張松がいなければ、劉備の益州入りは大幅に遅れていたかもしれません。彼が劉璋を裏切り劉備を迎えたことについて、後世の評価は厳しいものがあります。ただもし蜀が天下を取っていたら、これらはまったく違ったものになっていたのでしょうね。

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