張遼(ちょうりょう)

【姓名】 張遼(ちょうりょう) 【あざな】 文遠(ぶんえん)

【原籍】 雁門郡(がんもんぐん)馬邑県(ばゆうけん)

【生没】 165~222年(58歳)

【吉川】 第043話で初登場。
【演義】 第011回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張遼伝』あり。

「孫権(そんけん)危うし」を始めとする数々の武功。晋陽剛侯(しんようのごうこう)

父母ともに不詳。張汎(ちょうはん)は兄。息子の張虎(ちょうこ)は跡継ぎで、ほかにも息子がいたことがうかがえる。

張遼は前漢(ぜんかん)の聶壱(じょういつ)の子孫だが、復讐(ふくしゅう)を避けるため姓を「張」と変えたという。若いころ郡吏となり、幷州刺史(へいしゅうしし)の丁原(ていげん)から人並み外れた武力を見込まれ「従事(じゅうじ)」に取り立てられた。

丁原の命を受け、兵をひきいて洛陽(らくよう)へ行き、次いで何進(かしん)の命により河北(かほく)において兵を募ると、1千余人を連れて戻る。だが、何進は宦官(かんがん)に殺害(189年8月のこと)された後で、そのまま張遼は董卓(とうたく)の配下となった。

192年4月、董卓が長安(ちょうあん)で呂布(りょふ)に誅殺されると、張遼は呂布の配下となり「騎都尉(きとい)」に昇進。

同年6月、李傕(りかく)に敗れた呂布に付き従い、徐州(じょしゅう)へ逃れ「魯国相(ろこくのしょう)」を務めた。

198年、呂布が下邳(かひ)で曹操(そうそう)に敗れて処刑されると、張遼は軍勢を引き連れ降伏。「中郎将(ちゅうろうしょう)」に任ぜられたうえ「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられる。

その後、たびたび戦功を立て「裨将軍(ひしょうぐん)」に昇進。曹操が袁紹(えんしょう)を撃破した際は別軍として魯国へ向かい、諸県の平定にあたった。

200年、東海(とうかい)で昌豨(しょうき。昌霸〈しょうは〉)が背き、劉備(りゅうび)に味方する。張遼は夏侯淵(かこうえん)とともに包囲したものの、数か月経ち兵糧が尽きたため引き揚げが論議された。

張遼は夏侯淵にここ数日の昌豨の態度を説明し、使者を遣り話し合いに誘ってみる。昌豨が申し入れに応じて出てくると、張遼は説得に努めて降伏を認めさせた。そこで張遼は単身で三公山(さんこうざん)に登り、昌豨の家族にもあいさつする。昌豨は歓喜し、曹操のもとに出頭した。

203年3月、曹操が袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)を討伐した際、張遼は黎陽(れいよう)で功を立て「行中堅将軍(こうちゅうけんしょうぐん)」に任ぜられる。

同年4月、続いて鄴(ぎょう)攻めにも参加したが、袁尚は固守して降らない。

同年5月、曹操は許(きょ)へ帰還したが、張遼は楽進(がくしん)と陰安(いんあん)を攻略し、その地の民を河南(かなん)へ移住させた。

翌204年、再度の攻撃により鄴が陥落すると、張遼は別軍をひきいて趙国(ちょうこく)や常山(じょうざん)を攻略し、山沿いの賊や黒山(こくざん)の孫軽(そんけい)らも降す。

翌205年、曹操が南皮(なんぴ)で袁譚を討ち破ると、張遼は別軍をひきいて海岸地帯の攻略にあたり、遼東(りょうとう)の賊である柳毅(りゅうき)らを撃破した。

翌206年、張遼が鄴へ戻ったところ曹操自ら出迎え、手を引いて車に同乗させ「盪寇将軍(とうこうしょうぐん)」に任ずる。

さらに張遼は別軍として荊州(けいしゅう)を攻め、江夏(こうか)の諸県を平定。帰還して臨潁(りんえい)に駐屯し「都亭侯(とていこう)」に爵位が進む。

翌207年、柳城(りゅうじょう)の袁尚討伐に参加した際、不意に遭遇した烏丸軍(うがんぐん)と戦って討ち破り、単于(ぜんう。王)の蹋頓(とうとつ)を斬った。

このころまだ荊州が平定されていなかったので、張遼は長社(ちょうしゃ)に駐屯するよう命を受ける。出発に際し軍中に反乱を企てた者がおり、夜間に騒ぎを起こして火を放った。

みな混乱したものの、張遼は言う。

「動いてはならぬ。これは営内の全員が背いたわけではない。異変を起こした者がいて、みなを動揺させようとしているだけだ」

そこで、反乱と関係のない者は落ち着いて座っているよう命ずる。張遼が数十人の親衛兵をひきいて軍営の真ん中に立つと、ほどなく混乱は収まり、首謀者を捕らえて殺すことができた。

のち陳蘭(ちんらん)と梅成(ばいせい)が氐族(ていぞく)の住む6県を挙げて背く。曹操は于禁(うきん)と臧霸(そうは)らには梅成を、張遼には張郃(ちょうこう)や牛蓋(ぎゅうがい)らを指揮して陳蘭を、それぞれ討伐させた。

偽装降伏にだまされ于禁らが帰還してしまうと、そのまま梅成は手勢を引き連れて陳蘭と合流し、向きを変え灊山(せんざん)へ入る。

灊山の中に「天柱山(てんちゅうざん)」という高く険しい山があり、20余里(り)にわたる道は狭くて危険なうえ、やっと人が歩けるような小道が通じているだけだった。陳蘭はその山上に砦(とりで)を築く。

張遼は将軍らの反対を押し切って進み、山下まで迫って布陣。攻撃を仕掛けて陳蘭と梅成を斬り、配下の軍勢を捕虜とした。曹操は戦功を高く評価し、張遼の封邑(ほうゆう)を加増したうえ「仮節(かせつ)」とする。

209年、曹操が孫権討伐(「赤壁〈せきへき〉の戦い」)から帰還した後、張遼は楽進や李典(りてん)らと7千余の兵をひきい、合肥(ごうひ)に駐屯した。

215年3月、曹操は漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)討伐に向かったが、このとき護軍(ごぐん)の薛悌(せつてい)を遣わし、合肥へ命令書を届けさせる。命令書の入った箱の縁には「賊が来たら開け」と記されていた。

同年8月、急に孫権が10万の大軍をひきいて合肥を包囲したため、張遼はみなの前で箱を開ける。命令書には「もし孫権が来たら、張(張遼)と李(李典)の両将軍は城を出て戦え。楽将軍(楽進)は護軍(薛悌)を守り、戦ってはならない」と書かれていた。

張遼は、敵の包囲網が完成する前に迎え撃ち、その盛んな勢いをくじいてみなを落ち着かせた後、守備せよとのご指示だと説き明かす。李典もこの見解に賛同。

夜になると、張遼は勇気のある兵を募り800人が集まる。牛を殺して彼らをねぎらい、翌日に大会戦を行う決意をした。

夜が明けると、張遼は先頭に立ち敵陣を陥しにかかる。数十人の敵兵を殺しふたりの将校を斬り、大声で自分の名を叫びながら突き進み、ついに孫権の将旗の下までやってきた。

孫権は仰天し、彼の部下もどうすればよいのかわからない。やむなく孫権は小高い丘に逃げ登り、長い戟(げき)を使い身を守ろうとする。張遼は下りて戦えとどなったが、孫権は動かない。そのうち張遼の兵が少ないことに気づくと、自軍を集めて幾重にも包囲させた。

だが張遼は、左右に押し寄せる敵兵を追い払い突破。なお包囲の中に取り残されている味方を見ると引き返し救い出す。孫権配下の兵馬はみな道を開け、思い切ってぶつかろうとする者もないありさま。

明け方から戦い真昼に至ると、孫権軍は戦意を失い、張遼も城へ戻って守りを固めた。城内の者たちはようやく落ち着き、将軍らは感服した。

なお孫権は合肥の包囲を10日余り続けたものの、陥すことができずに撤退。張遼は諸軍をひきいて追撃にかかり、孫権を捕らえる寸前まで追い詰めた。曹操は張遼の勇に感心し「征東将軍(せいとうしょうぐん)」に任じた。

翌216年、曹操は再び孫権討伐に向かい、合肥に着くと、先に張遼が戦った場所を巡り歩いて感嘆する。そこで、張遼の兵を増やして諸軍の多くをとどめ、駐屯地を居巣(きょそう)に移させた。

219年、樊(はん)の曹仁(そうじん)が劉備配下の関羽(かんう)に包囲された際、ちょうど孫権が藩国の礼を執っており、曹操は南方へ備える必要がなかった。そのため張遼は命を受け、諸軍をひきいて曹仁の救援に向かう。

しかし、彼が到着する前にすでに徐晃(じょこう)が関羽を破り、曹仁の包囲も解けていた。張遼が軍勢をひきいて摩陂(まひ)に着くと、曹操は輦(くるま)からみなをねぎらう。その後、張遼は陳郡(ちんぐん)に駐屯した。

220年2月、曹丕(そうひ)が「魏王(ぎおう)」を継ぐと張遼は「前将軍(ぜんしょうぐん)」に転じ、彼の封邑を分ける形で兄の張汎と(自分の)息子ひとりが「列侯(れっこう)」に封ぜられた。

孫権が背くと再び張遼は合肥に駐屯することになり、「都郷侯(ときょうこう)」に爵位が進む。曹丕は彼の母に車を支給し、家族にも兵馬を付けて合肥まで護送させた。

同年10月、曹丕が帝位に即くと張遼は「晋陽侯」に爵位が進み、1千戸の加増を受ける。以前と合わせて封邑は2600戸となった。

翌221年、張遼は洛陽に参内。曹丕は建始殿(けんしでん)で引見し、孫権を討ち破ったときの話を親しく尋ねる。そして彼のために屋敷を建て、その母のためにも御殿を建てた。また当時、張遼の募りに応じて戦った兵をみな「虎賁(こほん。近衛兵)」とした。

孫権が再び魏に藩国の礼を執ると、張遼は雍丘(ようきゅう)に駐屯したが、その地で病気になる。

曹丕は侍中(じちゅう)の劉曄(りゅうよう)に命じ、太医(たいい。皇室の侍医)を連れて見舞いに行かせた。もともと張遼の部下だった虎賁らはみな病状について聞こうとし、その姿が道路に引きも切らなかったという。

張遼の病が癒えないので、曹丕は迎えを遣り行在所(あんざいしょ。天子〈てんし〉が行幸する際に使う仮の御殿)に連れてこさせ、御車をもって親しく見舞い、彼の手を取り御衣を授ける。さらに太官(たいかん。天子の食膳係)が毎日、天子の食膳を届けた。こうして病状がやや好転すると、張遼は駐屯地に戻る。

翌222年、孫権が再び背くと曹丕は親征を行う。張遼は船に乗って曹休(そうきゅう)とともに海陵(かいりょう)まで行き、長江(ちょうこう)に臨む場所へ布陣。

孫権は非常に恐れ、諸将にこう命じた。

「張遼は病身とはいえ、彼と敵対してはならない。よくよく気をつけるように」

この年、張遼は諸将とともに孫権配下の呂範(りょはん)を撃破。ところが病気が重くなり、そのまま江都(こうと)で死去した。曹丕は彼のために涙を流したという。「剛侯」と諡(おくりな)され息子の張虎が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

張遼の先祖だという聶壱について、司馬遷(しばせん)の『史記(しき)』(匈奴列伝〈きょうどれつでん〉)には以下のようにありました。

前漢の武帝(ぶてい。在位、前140~前87年)が即位した後、匈奴との和親の約束を明確にして厚遇します。関市によって通商し、多くの物資を提供したため単于以下みな漢に親しみ、長城(ちょうじょう)付近を往来するようになりました。

ところが(元光〈げんこう〉2〈前133〉年に)、漢は馬邑城下の「聶壱」という老人を使い、禁を犯して塞外に物資を運び出させます。匈奴に通じて馬邑城を裏切るように見せかけ、単于をおびき寄せようとしたのです。

誘いに乗った単于は10万騎をひきいて武州(ぶしゅう)の砦へ侵入。漢は御史大夫(ぎょしたいふ)の韓安国(かんあんこく)を「護軍」とし、4人の将軍と30余万の軍勢を統括させ、馬邑の近郊で待ち伏せました。

しかし、単于は馬邑まで100余里の所へ来たとき、多くの家畜が草原に散らばっているのに、牧人の姿が見えないことを不審に思います。

そこで亭障(ていしょう。辺塞の関門)を攻め、ちょうどここに拠っていた雁門の尉史(いし。官名)を捕らえ、伏兵の存在と位置を聞き出すことに成功。単于は兵をまとめて塞外へ引き返したのだと。

張遼には数えきれないほど武功がありましたが、やはり215年に合肥で孫権を捕らえかけたというのが光ります。この際に張遼とともに戦った決死の800人(の生き残り)についても、後でみな「虎賁」に取り立てられたということで、働きが評価されてよかったなと思いました。

あれだけの戦いをくぐり抜けながら、張遼の最期が病死だったいうのがスゴいですよね。

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