【姓名】 王弼(おうひつ) 【あざな】 輔嗣(ほし)
【原籍】 山陽郡(さんようぐん)高平県(こうへいけん)
【生没】 226~249年(24歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鍾会伝(しょうかいでん)』に付された「王弼伝」あり。
『老子(ろうし)』や『易(えき)』の神髄に挑む
父は王業(おうぎょう)だが、母は不詳。王凱(おうかい)は祖父。王宏(おうこう)は兄。
王弼は幼いころから明敏で、10余歳にして『老子』を好み、明晰(めいせき)な言葉をもって論ずる。裴徽(はいき)・傅嘏(ふか)・何晏(かあん)らから高く評価され、鍾会と仲が良かったという。
曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、王弼は尚書郎(しょうしょろう)に任ぜられる。
このころ曹爽(そうそう)が実権を握り、その一党が互いに引き立て合って出世した。
しかし王弼は道理をわきまえ、名声を誇ることがなかったため、黄門侍郎(こうもんじろう)に昇進することはなかった。
王弼は穏やかながらしっかりした性格で、酒宴を楽しみとし、音律にも通じ、投壺(とうこ。壺〈つぼ〉の口を狙い、矢を投げ入れる遊び)が得意だったという。また『易』や『老子』の注釈を著し、優れた議論を展開した。
一方で人柄には浅薄なところもあり、他人の心がうまく理解できない。
初め王弼は王黎(おうれい)や荀融(じゅんゆう)と親しかったが、王黎が黄門侍郎になったことから彼を恨むようになる。荀融との友情も最後まで保つことはできなかった。
249年、曹爽が処刑されると、王弼は公的な理由(曹爽の一党である何晏らの推挙を受けて任官されたこと)で免職となる。そして同年秋に病死した。このとき24歳だったという。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には記事が少なく、上で挙げたものは裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く、何劭(かしょう)が著した王弼の伝によるところが大きいです。
これには「王弼が亡くなったと聞き、司馬師(しばし)は何日も嘆息して残念がっていた」とか、「それほど彼の死は有識者の間で惜しまれたのだ」という記事もありました。
私には王弼の議論をどうこう言えませんが、『老子』や『易』の神髄に挑んだ姿勢には見るべきものがあると思います。三国時代にあっても、軍事や政治ばかりでない人が結構いたのだなと……。
また、同じく本伝の裴松之注に引く『博物記(はくぶつき)』には、以下のようにありました。
「むかし王粲(おうさん)が族兄(いとこ。一族の同世代の年長者)の王凱(王弼の祖父)とともに荊州(けいしゅう)へ避難したとき、劉表(りゅうひょう)は娘を王粲に嫁がせようと思った」
「しかし王粲の容貌が醜いうえ、その行動の軽率さを嫌う。そして王凱の容姿が美しいの見て、彼に娘を嫁がせた」
で、話はこれだけで終わらず――。
「蔡邕(さいよう。192年没)は1万巻近い書物を持っていたが、その晩年、これらを数台の車に載せて王粲に贈った」
「(217年に)王粲が亡くなった後、(219年に)相国掾(しょうこくえん)の魏諷(ぎふう)が謀反を企てたとき、王粲の息子たちも加担した。彼らが処刑された後、蔡邕が贈った書物はみな王業(王弼の父)の物になった」
つまり王弼の家には、もともと蔡邕が持っていた膨大な数の書物が受け継がれていたことになります。王弼の学識の形成には、このことも大きく影響したのだろうと感じました。
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