孫韶(そんしょう) ※あざなは公礼(こうれい)

【姓名】 孫韶(そんしょう) 【あざな】 公礼(こうれい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)

【生没】 188~241年(54歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫韶伝』あり。

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孫河(そんか)の甥

父母ともに不詳。孫楷(そんかい)・孫越(そんえつ)・孫異(そんい)・孫奕(そんえき)・孫恢(そんかい)という5人の息子がおり、跡継ぎは孫越。

孫韶は、204年に伯父の孫河が嬀覧(きらん)と戴員(たいうん)に殺害されると、その配下の兵士を取りまとめた。そして京城(けいじょう。京口〈けいこう〉)の補修工事を行い、楼櫓(ものみやぐら)を建てて兵器や設備を整え、敵の侵攻に備えた。

この年、孫権(そんけん)は丹楊郡(たんようぐん)で弟の孫翊(そんよく)が殺害されたと聞くや、豫章郡(よしょうぐん)の椒丘(しょうきゅう)から引き返す。丹楊の混乱を鎮めると、軍勢をひきいて呉郡へ帰還した。

その途中、夜になって到着した京城で軍営を設け、試しに城を攻撃してみる。城内の兵士の士気は高く、すぐに矢が射かけられた。孫権が正体を明かしたところで、ようやく矢はやんだ。

翌日、孫権は孫韶を引見して仕事ぶりを褒め、その場で承烈都尉(しょうれつとい)に任じ、孫河の下にいた部曲(ぶきょく。私兵)の統率を任せた。

さらに孫韶は曲阿(きょくあ)と丹徒(たんと)の両県を封邑(ほうゆう)として賜り、自分の判断で県の幹部を任用できるなど、かつての孫河と同様の権限を認められた。

その後、孫韶は偏将軍(へんしょうぐん)・広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任ぜられた。

221年に孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられた後、孫韶は揚威将軍(よういしょうぐん)に昇進して建徳侯(けんとくこう)に封ぜられた。

229年に孫権が帝位に即くと、孫韶は鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)に任ぜられた。

孫韶は数十年にわたり国境の守備にあたったが、この間に兵士の育成に功績を上げる。最前線の警備態勢を整え、遠くまで斥候を放って敵情の把握にも努め、敵の動きを素早くつかんで対応したため、戦いに敗れることが滅多になかった。

また、青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)・汝州(じょしゅう?)・沛(はい)などから投降してくる者も少なくなかった。

こうして、淮南(わいなん)や長江(ちょうこう)沿いの駐屯軍や偵察部隊はみな遠征に回され、徐水(じょすい)・泗水(しすい)・長江・淮河(わいが)の流域では、軍勢の駐屯しない地域がそれぞれ数百里に及んだ。

孫権が西方の討伐から戻り、221年に武昌(ぶしょう)を都に定めて以降、孫韶は10年余りも孫権に目通りする機会がなかった。

229年に孫権が武昌から建業(けんぎょう)へ遷都した後、ようやく目通りがかなう。

このとき孫権は、孫韶に青州や徐州一帯の状況を尋ねたが、彼は詳細まで把握しており、すべての質問に答えることができたという。

また、孫韶は身長が8尺(せき)もあり、温雅な風貌を備えていた。孫権は彼を気に入り、幽州牧(ゆうしゅうぼく)を加官したうえ仮節(かせつ)とした。

241年に孫韶は死去し、息子の孫越が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(呉書・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』には、以下のようにありました。

「225年冬、前年に続き、魏の曹丕が10余万の軍勢をひきいて広陵まで進軍した。孫権は守りを固めたが、このとき長江に氷が張り、曹丕もそのまま引き返すことになった」

「孫韶は部将の高寿(こうじゅ)らに500人の決死隊を付け、曹丕の退路で待ち伏せするよう命ずる。高寿らは夜陰に紛れて曹丕を襲撃し、その副車(そえぐるま)と羽蓋(羽根で飾った馬車のかさ)を奪って帰還した」

孫韶は状況判断に優れ、部将や兵士の心もよくつかんでいたらしい。

このほかにも、234年5月に孫権自ら魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲した際、孫韶が張承(ちょうしょう)らとともに、広陵から淮陰(わいいん)へ進軍しています(この遠征は途中で中止されました)。

孫韶は、241年に亡くなったとき54歳だったことになるので、ほかの孫氏一門に比べると長く活躍した人物と言えます。

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