譙周(しょうしゅう)

【姓名】 譙周(しょうしゅう) 【あざな】 允南(いんなん)

【原籍】 巴西郡(はせいぐん)西充国(せいじゅうこく)

【生没】 ?~270年(?歳)

【吉川】 第225話で初登場。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・譙周伝』あり。

劉禅(りゅうぜん)に降伏を勧めた功罪

父は譙?(山+幷。読み未詳)だが、母は不詳。譙熙(しょうき)・譙賢(しょうけん)・譙同(しょうどう)はみな息子。

譙周は幼いころに父を亡くし、母や兄とともに暮らす。そして、成長するにしたがい古代への憧れが強まり学業に励んだ。彼は家が貧しいことを気にせず、書物を朗読してはひとり楽しげに笑い、寝食も忘れるほど熱心な様子だったという。

やがて六経(りくけい)の研究に注力するようになり、その一方で書もよくし、天文にも通じた。それでも天変には興味がなく、諸子の文章についても好きになれず、これを通読することはなかった。

譙周は身長が8尺(せき)あったが顔だちは素朴で、誠実かつ己を飾るようなところはない。急な問いかけに応じて答える才能こそなかったものの、明敏で相当な見識を秘めていた。

224年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が「益州牧(えきしゅうのぼく)」を兼ねると、譙周は「勧学従事(かんがくじゅうじ)」に任ぜられる。

234年、諸葛亮が陣没した際、家にいた譙周は知らせを聞くなり駆けつけた。ほどなく職務を離れて駆けつけることを禁ずる詔(みことのり)が下されたが、譙周だけは迅速に行き着いたという。

大将軍(だいしょうぐん)の蔣琬(しょうえん)が「益州刺史(えきしゅうのしし)」を兼ねると、譙周は「典学従事(てんがくじゅうじ)」に転じ州内の学者を取り仕切った。

238年、劉禅が劉璿(りゅうせん)を「皇太子(こうたいし)」に立てると、譙周は「太子僕(たいしぼく)」となり、やがて「太子家令(たいしかれい)」に転ずる。

このころ劉禅はたびたび遊覧に出かけ、歌手や楽人(がくじん)を増員したが、譙周は上疏して厳しく諫め、徳行や節倹をもってみなの模範となるよう勧めた。

譙周は「中散大夫(ちゅうさんたいふ)」に移ってからも、皇太子の劉璿のそば近く仕えた。

当時は軍の出動が繰り返され民は疲れきっていた。譙周は、尚書令(しょうしょれい。251~258年)の陳祗(ちんし)とその利害について議論した後、これらを「仇国論(きゅうこくろん)」としてまとめた。

のち譙周は「光禄大夫(こうろくたいふ)」に昇進し、九卿(きゅうけい)に次ぐ地位を得る。

譙周は政事に関わらなかったものの、品行と見識によって礼遇された。朝廷で大きな問題に対する意見を求められたときは経典(けいてん)に基づいて答え、後進から質問を受けることもあった。

263年、魏(ぎ)の将軍のトウ艾(とうがい。登+阝)が江由(こうゆう)を突破し成都(せいと)へ向かってくると、これに備えていなかった蜀の朝廷は大混乱に陥る。

劉禅は群臣に協議させたが、よい考えも出ない。ある者は呉(ご)を頼ろうと言い、またある者は南中(なんちゅう)へ逃げようと言った。

だが譙周は、魏が呉を併呑することはあっても、呉が魏を併呑することはないとし、再度の屈辱を受けずに済むよう初めから魏に降るべきだと述べ、ついに劉禅の容れるところとなった。

魏の相国(しょうこく)の司馬昭(しばしょう)は、譙周の功績を採り上げ「陽城亭侯(ようじょうていこう)」に封じ、文書を出して彼を召し寄せる。しかし譙周は漢中(かんちゅう)まで進んだところで重病となり、それ以上は進めなくなった。

265年8月、司馬昭が死去し、息子の司馬炎(しばえん)が「相国・晋王(しんおう)」を継ぐ。

同年12月、魏の曹奐(そうかん)の禅譲を受けて司馬炎が帝位に即くと、繰り返し詔が下され、譙周の通路にあたる土地では便宜を図り、彼を都へ送り出すよう命じた。こうして譙周は病身を押して洛陽(らくよう)へ向かい、267年になって到着した。

それでも病が治らなかったため、譙周の住まいまで使者が出向き「騎都尉(きとい)」の叙任を伝える。このとき譙周は功績がないのに封邑(ほうゆう)を受けてしまったと言い、爵位と封邑を返上したいと願い出たが許可されなかった。

270年秋、譙周は「散騎常侍(さんきじょうじ)」に昇進するも重病を理由に辞退し、同年冬に死去した。

また、譙周には『法訓(ほうくん)』「五経論」『古史考(こしこう)』など100余編に上る著作があったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『蜀記(しょくき)』によると、譙周が初めて諸葛亮と会ったとき、彼の様子を見た左右の者たちはみな笑ってしまったそうです。

譙周の退出後、担当官吏は先ほど笑った者を処分するよう求めますが、諸葛亮はこう言いました。

「私でさえ我慢できなかったのだから、左右の者たちも仕方なかろう」

譙周は素朴な顔だちだったということですし、何げないしぐさや受け答えが、みなの笑いのツボにハマってしまったのでしょうか?

譙周が劉禅に降伏を勧めたことについて、裴松之注に孫綽(そんしゃく)や孫盛(そんせい)の批判が引かれていました。ですが、この件はなかなか白黒をつけにくい問題だと思います。

諸葛亮の死から30年余りが経ち、劉禅の治世も40年を越え、さらに多大な犠牲を払ってまで蜀を保ち続ける意義を見いだせなかった、という見方もできるのではないかと……。

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