【姓名】 張悌(ちょうてい) 【あざな】 巨先(きょせん)
【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)
【生没】 ?~280年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。
呉(ご)に殉じた最後の丞相(じょうしょう)
父母ともに不詳。
張悌は若くして道理を知る者と評価され、孫休(そんきゅう)の時代(258~264年)に屯騎校尉(とんきこうい)を務めた。
後の279年8月、孫晧(そんこう)から丞相に任ぜられる。
翌280年に晋(しん)の大攻勢が始まると、張悌は護軍将軍(ごぐんしょうぐん)の孫震(そんしん)・丹楊太守(たんようたいしゅ)の沈瑩(しんえい)・副軍師(ふくぐんし)の諸葛靚(しょかつせい)らとともに、3万の軍勢をひきいて長江(ちょうこう)を渡り、呉軍が各地で敗北を重ねる中で決死の抗戦を繰り広げた。
しかし敵の大軍を食い止めることはかなわず、張悌や沈瑩は晋の安東将軍(あんとうしょうぐん)の王渾(おうこん)に斬られた。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『襄陽記(じょうようき)』および干宝(かんぽう)の『晋紀(しんき)』によるものです。
張悌の見識の高さについては、『襄陽記』に以下のような話がありました。
263年、魏(ぎ)が三道から蜀(しょく)へ大攻勢を仕掛けた際、ある呉人(ごひと)は、魏の実権を握る司馬昭(しばしょう)の下で行われる今回の遠征が失敗に終わると見て、そうした考えを張悌に語ります。
しかし、張悌の考えはまったく異なるものでした。
曹操(そうそう)以来の曹氏の権謀術数を主とした政治について、これを民は恐れていたが、決してその徳に懐いたわけではないとし、曹氏はとうに民心を失っていることを見抜きます。
一方で、司馬懿(しばい)以来の司馬氏(司馬師〈しばし〉と司馬昭)は魏の実権を握った後、大功を立て、恩恵を平等に施すことで民を救い、早くから民心を得ているとも語ります。
その例として、淮南(わいなん)でみたび起こった反乱の際(251年の王淩〈おうりょう〉、255年の毌丘倹〈かんきゅうけん〉および文欽〈ぶんきん〉、257年の諸葛誕〈しょかつたん〉の挙兵を指す)も中央は乱れず、(260年に)曹髦(そうぼう)が殺害されたときも四方が動揺しなかったことを挙げました。
そのうえで現在の蜀の乱れた政治体制に言及し、両国の力の差は明らかだと断じて、魏が蜀に勝利することを疑いませんでした。
結局、彼の見立て通り、この年のうちに蜀の劉禅(りゅうぜん)は魏に降伏し、滅亡してしまいます。
また「孫晧伝」では280年の記事の中で、呉軍が各地で晋軍に敗れて崩壊する様子や、張悌と沈瑩らが王渾に斬られたことが簡潔に書かれているだけですが、『襄陽記』には張悌らの奮戦ぶりがいくらか詳しく書かれていました。
呉軍が牛渚(ぎゅうしょ)まで進んだところで、沈瑩が張悌に、現状では長江上流の備えで晋の水軍を防げるはずがないから、自分たちは長江を渡らず、この地に兵を集めて敵を迎え撃つべきだと述べます。
張悌は、すでに呉が滅亡の瀬戸際にあると十分に自覚しつつも、益州(えきしゅう)から晋の水軍がこの地まで押し寄せたら、民衆が混乱を起こして収拾がつかなくなるとし、あくまで長江を渡ることにこだわり、江北(こうほく)で戦って大敗を喫しました。
諸葛靚は5、600人の手勢とともに退却しようとし、張悌のもとへも使者を遣って退却を促しますが、彼は承知しません。
そこで諸葛靚自ら説得に向かうと、張悌は涙ながらに、「まだ私が子どもだったころ、きみの家の丞相(諸葛亮〈しょかつりょう〉のこと)に評価していただいたことがある」と話し、以来その知遇に背かないよう心がけてきたとの思いを打ち明け、ついに退かずに戦死したという。
孫晧の時代(264~280年)の呉は、めちゃめちゃな状態になっていましたが、張悌らのように死を覚悟して戦い、国に殉じた人々もいたのです。
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