諸葛亮(しょかつりょう) ※あざなは孔明(こうめい)、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の武郷忠武侯(ぶきょうちゅうぶこう)

【姓名】 諸葛亮(しょかつりょう) 【あざな】 孔明(こうめい)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)陽都県(ようとけん)

【生没】 181~234年(54歳)

【吉川】 第113話で初登場。
【演義】 第009回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・諸葛亮伝』あり。

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蜀の基盤を築いた名宰相、武郷忠武侯(ぶきょうちゅうぶこう)

父は諸葛珪(しょかつけい)だが、母は不詳。諸葛玄(しょかつげん)は従父(おじ)。

諸葛瑾(しょかつきん)は兄で、諸葛均(しょかつきん)は弟。龐徳公(ほうとくこう)の息子の龐山民(ほうさんみん)に嫁いだ次姉のほか、別に長姉がいたことがうかがえる。

妻は黄氏(こうし。黄承彦〈こうしょうげん〉の娘)。諸葛喬(しょかつきょう)は養子(諸葛瑾の次男。228年没)だったが、諸葛瞻(しょかつせん)は実子で、こちらが跡を継ぐことになった。

諸葛亮は幼いころ父を亡くし、従父の諸葛玄に養育された。諸葛玄の死後は襄陽(じょうよう)郊外の隆中(りゅうちゅう)に移住し、半農半学の暮らしに入る。

207年、劉備(りゅうび)の三顧の礼に応えて出廬(しゅつろ)。

その後は劉備を献身的に支え続け、数多くの戦いを経て(221年に)蜀(漢〈かん〉。蜀漢)の建国に漕(こ)ぎつける。建国後は丞相(じょうしょう)に就任し、内外の政務を取り仕切った。

223年、劉備が崩ずると、跡を継いだ劉禅(りゅうぜん)にも真心を尽くして仕え、武郷侯に封ぜられた。

225年、自ら大軍をひきいて南征を成し遂げたことで、悲願である北伐への道を開く。

こうして227年から取り組んだ一連の北伐では、目立った成果こそ上げられなかったものの、魏軍(ぎぐん)の漢中(かんちゅう)への侵入を許さなかった。

234年、五丈原(ごじょうげん)の陣中で病死。忠武侯と諡(おくりな)され、息子の諸葛瞻が跡を継いだ。

諸葛亮の遺言通り、遺体は着ていた服のまま漢中の定軍山(ていぐんざん)に葬られる。墳墓は自然の山を利用して造らせたもので、柩(ひつぎ)が入るだけの広さでよいとし、器物の副葬も許さなかったという。

主な経歴

-181年(1歳)-
この年、誕生。幼いころ父を亡くしたため、弟の諸葛均とともに従父の諸葛玄に養育される。

初め諸葛玄は、袁術(えんじゅつ)の任命を受けて豫章太守(よしょうたいしゅ)となったが、やがて朝廷の任命を受けた朱皓(しゅこう)と交代した。そのため諸葛玄は、旧知である荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)を頼る。

諸葛玄が死去(経緯については諸説あり)すると、諸葛亮は南陽郡(なんようぐん)の鄧県(とうけん)に移住。そこは襄陽の西方20里にあり、隆中と呼ばれていた。この地で自ら農耕に取り組み、「梁父吟(りょうほぎん)」を歌って暮らす。

-196年(16歳)ごろ-
石韜(せきとう)・徐庶(じょしょ)・孟建(もうけん)らとともに遊学。

-207年(27歳)-
この年、徐庶が新野(しんや)で劉備と会った際、諸葛亮を臥龍(がりょう)に例えて推薦する。これを受けて、劉備はみたび諸葛亮の住まいを訪ね、ようやく対面を果たす。諸葛亮は、劉備の漢室再興に懸ける思いを聞き、ついに出廬を決めた。

-208年(28歳)-
7月、曹操(そうそう)が荊州討伐に乗り出す。

8月、劉表が死去。息子の劉琮(りゅうそう)が跡を継ぐも、戦うことなく曹操に降伏。

そのころ樊城(はんじょう)にあった劉備は、手勢をひきいて南下。諸葛亮は徐庶らとともに付き従ったが、曹操軍の追撃を受けて長阪(ちょうはん)で敗れる。このとき徐庶の母が捕虜になったことから、徐庶は劉備のもとを離れ、曹操に仕えることになった。

やがて劉備は夏口(かこう)に到着。諸葛亮は劉備の許しを得て、柴桑(さいそう)で孫権(そんけん)と会見。孫権の説得に成功し、協力して曹操軍に当たることとなる。

12月、孫権配下の周瑜(しゅうゆ)らが、赤壁(せきへき)で曹操軍を大破した。

ほどなく劉備は江南(こうなん)に地盤を確保する。諸葛亮は軍師中郎将(ぐんしちゅうろうしょう)となり、零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)・長沙(ちょうさ)の3郡の内政を任せられた。

-211年(31歳)-
この年、益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)の要請を受け、劉備が軍勢をひきいて益州へ入り、漢中の張魯(ちょうろ)と対峙(たいじ)する。このとき諸葛亮は荊州に留まり、関羽(かんう)らとともに留守を預かった。

-212年(32歳)-
この年、劉備が葭萌(かぼう)から反転し、劉璋との間に戦端を開く。

-214年(34歳)-
春、諸葛亮が荊州から出撃し、張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)とともに長江(ちょうこう)をさかのぼる。彼らと手分けして益州の郡県の平定を進め、劉備と合流後は成都(せいと)を包囲した。

夏、劉璋が劉備に降伏。諸葛亮は軍師将軍(ぐんししょうぐん)・左将軍府事(さしょうぐんふじ)に昇進。

このとき劉備は(漢の)左将軍だった。

-219年(39歳)-
春、黄忠(こうちゅう)が、陽平(ようへい)で曹操配下の夏侯淵(かこうえん)を討ち取る。

3月、曹操が軍勢をひきい、長安(ちょうあん)から斜谷(やこく)を抜けて陽平に到着すると、劉備は要害を盾に抵抗。

5月、曹操が撤退し、劉備が漢中を押さえる。

7月、劉備が漢中王に即く。

秋、関羽が樊城を包囲し、救援に駆けつけた曹操配下の于禁(うきん)らを降すも、次いで到着した徐晃(じょこう)に敗れる。

閏10月、孫権が関羽討伐に乗り出し、配下の呂蒙(りょもう)が、公安(こうあん)や江陵(こうりょう)を戦うことなく降す。

12月、関羽らが章郷(しょうきょう)で孫権配下の馬忠(ばちゅう)に捕らえられ、ほどなく処刑される。

-220年(40歳)-
1月、曹操が病死し、曹丕(そうひ)が跡を継ぐ。

10月、曹丕が献帝(けんてい)から禅譲を受けて帝位に即き、「黄初(こうしょ)」と建元。

-221年(41歳)-
4月、諸葛亮らの説得を受け、劉備が帝位に即く。このとき諸葛亮は丞相に就任した。

7月、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の張飛が側近に殺害されたため、諸葛亮は司隷校尉(しれいこうい)も兼務する。

生前の張飛は司隷校尉を兼ねていた。

7月、劉備が大軍をひきい、孫権討伐の東征を強行。

-222年(42歳)-
閏6月、劉備が、猇亭(おうてい)で孫権配下の陸遜(りくそん)に大敗。

冬、孫権が魏から独立する意思を示す(実際に帝位に即いたのは229年のこと)。

-223年(43歳)-
春、劉備が永安(えいあん)で重体となり、諸葛亮は成都から駆けつけて後事を託される。

4月、劉備が崩御(ほうぎょ)。

5月、劉禅が帝位を継ぐと諸葛亮は武郷侯に封ぜられ、独自の役所(丞相府)を開設して政務を取り仕切る。しばらく後には益州牧も兼務することになった。

-224年(44歳)-
夏、呉との同盟関係が回復。

-225年(45歳)-
3月、自ら軍勢をひきいて南征し、秋までにことごとく平定する。

この間に孟獲(もうかく)の心服があったという。

12月、成都へ帰還。

-226年(46歳)-
5月、魏の曹丕が死去し、曹叡(そうえい)が跡を継ぐ。

-227年(47歳)-
春、劉禅に「出師表(すいしのひょう)」を奉呈して北伐に着手。漢中で準備を整えた後、沔水(べんすい)の北にあたる、陽平郡の石馬県(せきばけん)に陣を布(し)く。

この年、息子の諸葛瞻が誕生。

-228年(48歳)-
春、斜谷道から進んで郿(び)を奪うと宣伝しつつ、趙雲と鄧芝(とうし)に囮(おとり)の軍勢を任せて箕谷(きこく)へ向かわせる。魏の大将軍(だいしょうぐん)の曹真(そうしん)は、総勢を挙げて趙雲らを防ごうとした。

この間に諸葛亮は、諸軍をひきいて祁山(きざん)を攻める。南安(なんあん)・天水(てんすい)・安定(あんてい)の3郡が蜀に呼応したため、関中(かんちゅう)は震動した。

2月、魏の曹叡が長安(ちょうあん)まで行幸し、張郃(ちょうこう)に防戦を命ずる。

諸葛亮は馬謖(ばしょく)を先鋒として街亭(がいてい)で戦わせたものの、馬謖の命令違反もあって大敗。これを受け、西県(せいけん)の1千余家を移住させただけで、蜀軍は漢中へ引き揚げることになる。

今次の北伐では姜維(きょうい)の加入があった。

帰還後に馬謖を処刑。諸葛亮も3等の降格を願い出、以後は右将軍(ゆうしょうぐん)として丞相の職務を執り行うことになった。

冬、再び散関(さんかん)から出撃して陳倉(ちんそう)を包囲するも、魏の郝昭(かくしょう)の奮戦に遭い、兵糧が尽きて撤退。この際、追撃してきた王双(おうそう)を討ち取る。

この年、息子(養子)の諸葛喬が死去した。

-229年(49歳)-
春、陳式(ちんしょく)に命じ、武都(ぶと)と陰平(いんぺい)の両郡を攻撃。

魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)が迎撃に出てきたため、諸葛亮も建威(けんい)まで進み、これを退ける。こうして両郡を平定すると、劉禅の詔(みことのり)により丞相に復帰した。

4月、呉の孫権が帝位に即く。

この年、趙雲が死去した。

-230年(50歳)-
秋、魏の司馬懿(しばい)・張郃・曹真らが漢中に侵攻。諸葛亮は城固(じょうこ)および赤阪(せきはん)で待ち受けたものの、大雨により魏軍が撤退した。

-231年(51歳)-
2月、再び祁山に出撃。輸送用に木牛(ぼくぎゅう)を投入したものの、やはり兵糧が尽きて撤退。

6月、追撃してきた魏の張郃を青封(せいほう)で討ち取る。

8月、李平(りへい。李厳〈りげん〉)を罷免し、梓潼郡(しとうぐん)へ配流する。

-234年(54歳)-
2月、大軍をひきいて斜谷経由で出撃。輸送用に流馬(りゅうば)を投入。

4月、武功(ぶこう)の五丈原に本営を置き、魏の司馬懿と渭南(いなん)で対峙。これまでの兵糧問題を考慮し、今回は兵士を分けて屯田を行わせ、長期の駐留に備えた。

8月、陣中にて病没。

管理人「かぶらがわ」より

諸葛亮ほどの才能があれば、きっと誰に仕えても重用されたに違いありません。その彼が20代後半だったころ、ずっと年上の劉備から熱烈に出廬を乞われたわけです。彼は出廬して、劉備に仕えるという決断を下しました。

諸葛亮には不思議なくらい個人的な野心が感じられないので、やはり劉備自身に強く惹(ひ)きつけられたということなのでしょう。その後は苦難の連続でしたが、何とか劉備を帝位に即けるところまで持っていきました。

あくまで諸葛亮は「名宰相」であり、決して「名軍師」や「名将軍」ではなかったと思いますが、様々な悪条件を抱えながらの一途な奮闘ぶりには、言葉で表せない感動を覚えました。

ひとりの人間の生きざまとして見ると、ここまでのやりきった感が出せたのは、むしろ羨ましいなとも思います。

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