孫恩(そんおん)

【姓名】 孫恩(そんおん) 【あざな】 ?

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~258年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孫綽(そんしゃく)の息子

父は孫綽だが、母は不詳。孫綝(そんりん)は兄で、孫拠(そんきょ)・孫幹(そんかん)・孫闓(そんかい)は弟。

257年5月、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こし、城に立て籠もったまま呉(ご)への投降を申し入れる。

これに対して呉は文欽(ぶんきん)・唐咨(とうし)・全端(ぜんたん)・全懌(ぜんえき)らを遣わし、3万の軍勢をもって諸葛誕の救援に向かわせた。魏は中央軍と地方軍、合わせて20余万を動員して寿春の包囲を強めた。

呉の朱異(しゅい)は、別に3万の軍勢をひきいて安豊城(あんぽうじょう)に本陣を置き、文欽らのために外部から魏軍を牽制(けんせい)しようとした。

しかし朱異は、たびたび魏の州泰(しゅうたい)・石苞(せきほう)・胡烈(これつ)に敗れた。

同年7月、孫綝は鑊里(かくり)まで本営を進め、魏軍に敗れた朱異に新たに3万の軍勢を授け、決死の攻撃をかけさせようとした。だが、朱異はこの命令を拒否した。

同年9月、孫綝は鑊里で朱異を処刑し、代わりに孫恩が救援として差し向けられた。

翌258年2月、諸葛誕が魏軍に敗れて戦死したため、呉軍も寿春から引き揚げた。

孫綝は、魏軍の包囲から諸葛誕を救出できなかっただけでなく、多くの兵士を戦死させ、名のある部将を誅殺したことから、人々はみな不満を抱いた。

先の257年4月に孫亮(そんりょう)が親政を行って以来、しばしば問責が加えられるようになり、孫綝はひどく不安を感じていた。そのため孫綝は建業(けんぎょう)に戻っても、病気を理由に参内しなくなった。

孫綝は朱雀橋(すざくきょう)の南に私邸を建て、弟で威遠将軍(いえんしょうぐん)の孫拠を蒼龍門(そうりょうもん。建業の東門)内に置いて宿衛にあたらせた。

武衛将軍(ぶえいしょうぐん)だった孫恩も、弟の孫幹や孫闓とともに、都のいくつかの軍営に配下の軍勢を置いて孫綝を支えた。

同年9月、孫綝は、自身の誅殺を計画した孫亮、および計画に加担した太常(たいじょう)の全尚(ぜんしょう)と将軍の劉丞(りゅうじょう)を押さえるべく動いた。このとき孫恩は孫綝の命を受け、蒼龍門外で劉丞を殺害した。

こうして孫亮が廃されると翌10月、孫恩は行丞相(こうじょうしょう。丞相代行)として百官を引き連れ、乗輿(じょうよ。天子〈てんし〉の乗り物〉)と法駕(ほうが。同じく天子の乗り物)を用意して永昌亭(えいしょうてい)で孫休(そんきゅう)を出迎えた。

そして同月に即位した孫休から、御史大夫(ぎょしたいふ)・衛将軍(えいしょうぐん)・中軍督(ちゅうぐんとく)に任ぜられ、県侯(けんこう)に封ぜられた。

同年11月、孫恩は孫休の詔(みことのり)によって侍中(じちゅう)を加官され、大将軍(だいしょうぐん)の孫綝と分担して諸事を処理するよう命ぜられた。

同年12月、孫休らが密かに進めていた孫綝誅殺計画が発動する。

孫綝は臘会(ろうかい。祖先および百神の祭祀〈さいし〉)の席で捕縛され、そのまま処刑された。孫恩ら孫綝の一族は皆殺しにされ、船で魏へ降ろうとした孫闓も追っ手によって殺害された。

管理人「かぶらがわ」より

孫綝の兄弟はみな侯に封ぜられ、一時は主君をしのぐ権勢を振るったものの、結局は皆殺しになってしまいました。

兄弟5人のうちで、孫恩と孫拠だけは順番がはっきりしませんでした。記事を見た感じでは孫恩のほうが兄だと思うのですけど、訳書に載っていた系譜では孫拠のほうが兄になっていました。

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