孫権(そんけん)

【姓名】 孫権(そんけん) 【あざな】 仲謀(ちゅうぼう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 182~252年(71歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・呉主伝(ごしゅでん)』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

呉(ご)の初代皇帝

父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。

同母兄には孫策(そんさく)、同母弟には孫翊(そんよく)と孫匡(そんきょう)がおり、異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。妹の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、のちに呉へ戻った。

孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)という7人の息子を儲けた。

娘の孫魯班(そんろはん)は初め周循(しゅうじゅん)に嫁いだが、のちに全琮(ぜんそう)と再婚した。同じく娘の孫魯育(そんろいく)は初め朱拠(しゅきょ)に嫁いだが、のちに劉纂(りゅうさん)と再婚した。また、孫魯育とは別に劉纂に嫁ぎ、早くに亡くなった娘(劉纂の先妻)もいた。

221年に魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられたが、翌222年には独自の年号を建てて自立の意思を示した。

229年4月、武昌(ぶしょう)の南郊で帝位に即き、名実ともに三国鼎立(ていりつ)の時代を迎える。

252年4月に崩御(ほうぎょ)し、帝位を継いだ孫亮から大皇帝(たいこうてい)と諡(おくりな)された。

主な経歴

-182年(1歳)-
この年、誕生。

-192年(11歳。もしくは191年〈10歳〉)-
この年、襄陽(じょうよう)の劉表(りゅうひょう)を包囲していた孫堅が、郊外の峴山(けんざん)を単騎で駆けていた際、黄祖(こうそ)配下の兵士が放った矢が当たって(異説もある)急死。これを受け兄の孫策が跡を継ぐ。

-196年(15歳)-
この年、孫策から陽羨県長(ようせんけんのちょう)に任ぜられた。

-199年(18歳)-
この年、郡から孝廉(こうれん)に、州から茂才(もさい)に、それぞれ推挙され、行奉義校尉(こうほうぎこうい)に任ぜられた。

この年、孫策に付き従い、廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)を討伐。続いて黄祖の軍勢を沙羡(さい)で撃破した。

-200年(19歳)-
この年、孫策が26歳で急死。後事を託されて立つ。

この年?、曹操(そうそう)の上表によって討虜将軍(とうりょしょうぐん)に任ぜられ会稽太守(かいけいのたいしゅ)を兼ねた。自身は軍勢とともに呉郡に留まり、会稽郡には丞(じょう)を遣わし文書の処理にあたらせた。

張昭(ちょうしょう)を師傅(しふ)として礼遇し、周瑜(しゅうゆ)・程普(ていふ)・呂範(りょはん)らを軍の司令官に任じた。

優れた人物を招くことに努め、丁重な礼をもって名士を召し寄せたため、魯粛(ろしゅく)や諸葛瑾(しょかつきん)らが賓客となった。

山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)を鎮撫(ちんぶ)し、従おうとしない者たちの討伐を命じた。また、孫策の上表により任命され、その死後に背いた廬江太守の李術(りじゅつ)を皖城(かんじょう)で討ち取り、配下の兵士ら3万余人を強制移住させた。

-202年(21歳)-
この年、母の呉氏が亡くなる(異説もある)。

-203年(22歳)-
この年、黄祖討伐に向かい水軍を撃破。しかし、城を攻略する前に山岳地帯の不服従民が動きを見せたため豫章(よしょう)まで引き返した。

そこで呂範を鄱陽(はよう)に、程普を楽安(らくあん)に、太史慈(たいしじ)を海昏(かいこん)に、それぞれ遣わし平定にあたらせた。

また、韓当(かんとう)・周泰(しゅうたい)・呂蒙(りょもう)らを、政情が不安定な諸県の令(れい)や長(ちょう)として起用した。

-204年(23歳)-
この年、同母弟で丹楊太守(たんようたいしゅ)の孫翊が側近に殺害されたため、従兄の孫瑜(そんゆ)を丹楊太守に任じた。

-205年(24歳)-
この年、賀斉(がせい)を遣わし上饒県(じょうじょうけん)を討伐させ、県を分割して建平県(けんぺいけん)を設置した。

-207年(26歳)-
この年、黄祖討伐に向かい、その地の民を捕らえて連れ帰った。

-208年(27歳)-
春、またも黄祖討伐に向かう。都尉(とい)の呂蒙が黄祖たる先鋒の水軍を撃破。続いて淩統(りょうとう)や董襲(とうしゅう)らが精鋭をもって攻め立てたため、ついに城を陥とすことができた。

黄祖は身ひとつで逃走したが、騎士(きし)の馮則(ふうそく)が追いかけて首級を挙げた。この戦いでは黄祖配下の数万の男女を捕虜とした。

8月、荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表が死去。魯粛の進言を容れ、魯粛を自身の名代として荊州へ遣わし、劉表のふたりの息子に弔意を伝える一方、荊州の動静も探らせようとした。

ところが、魯粛が荊州に着く前に曹操が州境まで軍勢を進めると、劉表の跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は州を挙げ降伏してしまう。

その際、劉表のもとに身を寄せていた劉備は、長江(ちょうこう)を渡り南へ逃げようとし、途中で魯粛と出会った。

魯粛から話を聴いた劉備は夏口(かこう)まで来て留まり、諸葛亮(しょかつりょう)を遣わしてくる。こちらからも周瑜や程普らを劉備のもとに遣わし、同盟を結ぶ話がまとまった。

その後、荊州の軍勢をも手に入れた曹操は圧倒的な勢いを示し、群臣は曹操への降伏を勧める者が多かった。ただ周瑜と魯粛だけは抗戦を主張し、最終的には抗戦を決断。周瑜と程普を左右の督(とく)に任じ、それぞれに1万の軍勢をひきいさせ、劉備と共同で曹操軍に当たることにした。

赤壁(せきへき)で曹操軍を壊滅させると、曹操は残った船を焼き払い撤退。周瑜や劉備らは曹操を追って南郡(なんぐん)まで進んだ。

曹操は許(きょ)へ帰っていき、曹仁(そうじん)と徐晃(じょこう)を江陵(こうりょう)に留め、楽進(がくしん)に襄陽を守らせた。

そこで自ら軍勢をひきいて合肥(ごうひ)を包囲し、張昭には当塗(とうと)を攻めさせた。しかし張昭は戦果を挙げることができず、合肥のほうも1か月以上かけても陥せなかった。

そのうち曹操が張喜(ちょうき)に騎兵をひきいさせ、合肥へ遣わしたとの知らせが届いたため(翌年にかけて)軍勢を引き揚げた。

この年、賀斉を遣わし黟県(いけん)と歙県(しょうけん)を討伐させた。そして、歙県を分割し、始新(ししん)・新定(しんてい)・犁陽(りよう)・休陽(きゅうよう)の4県を設置したうえ、これらの6県を併せて新都郡(しんとぐん)を新設した。

-209年(28歳)-
この年、周瑜が1年を超える対峙の末、南郡から曹仁を追い払う。そこで周瑜を南郡太守に任じた。

劉備の上表により行車騎将軍(こうしゃきしょうぐん)に任ぜられ徐州牧(じょしゅうのぼく)を兼任することになった。劉備のほうは荊州牧に任ぜられ、公安(こうあん)に軍勢を駐留させた。

この年、妹を劉備の後妻として嫁がせた。

この年、息子の孫登が生まれた。

-210年(29歳)-
この年、豫章郡を分割して鄱陽郡を新設。同じく長沙郡(ちょうさぐん)を分割して漢昌郡(かんしょうぐん)を新設し、魯粛を漢昌太守に任じて陸口(りくこう)に駐留させた。

-211年(30歳)-
この年、政庁を秣陵(ばつりょう)へ移した。

-212年(31歳)-
この年(211年とも)、石頭(せきとう)に城壁を築き、秣陵を建業(けんぎょう)と改めた。また、曹操が侵攻を計画していることを聞き濡須塢(じゅしゅう)を築いた。

-213年(32歳)-
1月、曹操が軍勢をひきいて濡須へ攻め寄せたため、自ら防戦に出る。1か月以上の対峙を経て曹操は軍勢を引き揚げた。

この年、息子の孫慮が生まれた。

-214年(33歳)-
5月、皖城を攻め、翌閏5月には攻略。廬江太守の朱光(しゅこう)と参軍(さんぐん)の董和(とうか)、さらに数万の男女を捕虜とした。

この年、劉備が蜀を平定したため、諸葛瑾を遣わし荊州諸郡の返還を求める。しかし劉備は荊州返還の意思を見せない。そこで荊州南部の3郡(長沙・零陵〈れいりょう〉・桂陽〈けいよう〉)に太守を任命して赴任させたものの、みな関羽(かんう)に追い返された。

このため呂蒙に2万の兵をひきいさせ、鮮于丹(せんうたん)・徐忠(じょちゅう)・孫規(そんき)らとともに3郡を攻め取るよう命ずる。

魯粛にも1万の兵を授けて巴丘(はきゅう)へ向かわせ、関羽の侵攻に備えた。自身は陸口に留まり、これらの軍勢の総指揮にあたった。

呂蒙が軍勢を進めると、長沙と桂陽の両郡は降伏したが、零陵太守の郝普(かくふ)だけは降伏しなかった。このとき劉備は公安まで進軍し、関羽に3万の兵をひきいさせて益陽(えきよう)へ向かわせた。そのため呂蒙らを呼び戻し、魯粛の救援に向かわせようとした。

呂蒙は使者を遣わして郝普を降し、3郡すべてを手中に収めてから引き返すと、孫皎(そんこう)や潘璋(はんしょう)とともに魯粛の軍勢を併せて進軍し、益陽で関羽と対峙した。

戦端が開かれる前に、曹操が漢中(かんちゅう)へ侵攻。これを受け劉備から和睦の申し入れがあり、こちらからも諸葛瑾を遣わして承諾の旨を伝えさせ同盟関係を回復。その際、荊州を分割統治することで合意。南郡・零陵・武陵(ぶりょう)の3郡以西が劉備に帰属することを認めた。

こうして陸口から引き返すとそのまま合肥を攻めた。だが合肥の攻略は果たせず、軍勢をまとめて帰還することにした。帰還に際しては津(わたしば)の北で曹操配下の張遼(ちょうりょう)の急襲を受け、危うく討たれそうになった。

-216年(35歳)-
冬、曹操が居巣(きょそう)に本営を置き、そこから濡須に攻め寄せる。

-217年(36歳)-
春、都尉の徐詳(じょしょう)を遣わし曹操に降伏を申し入れる。曹操も返礼の使者を遣わしてきたため、好(よしみ)を通じて婚姻関係を固める。

-218年(37歳)-
10月、呉県へ向かう途中、庱亭(りょうてい)で虎(トラ)狩りを行う。このとき虎のため乗馬が傷を負い、虎に向かって双戟(そうげき)を投げつけた。虎が後ずさりしたところ、従者の張世(ちょうせい)が戈を打ち込み捕らえた。

-219年(38歳)-
この年、襄陽一帯で曹仁と関羽が対峙。そこで曹操に手紙を送り、関羽の討伐を申し出た。

閏10月、関羽討伐の軍勢を動かす。先行した呂蒙が公安を降し、劉備配下の将軍の士仁(しじん)を捕虜とした。

呂蒙が南郡まで進むと、劉備配下で南郡太守の麋芳(びほう)が城を挙げて降伏。呂蒙は江陵に本営を置き、その地の安撫(あんぶ)にあたった。また、関羽に捕らえられていた于禁(うきん)を釈放した。

別動隊の陸遜(りくそん)は宜都(ぎと)を攻略。続いて秭帰(しき)・枝江(しこう)・夷道(いどう)なども手に入れると、引き返して夷陵(いりょう)に駐屯。三峡の出口を固め、劉備の援軍に備えた。

関羽は当陽(とうよう)まで退いたあと、西の麦城(ばくじょう)に立てこもった。使者を遣り降伏を勧めたが、関羽は城外へ逃走した。

12月、潘璋配下の司馬(しば)の馬忠(ばちゅう)が、章郷(しょうきょう)で関羽と息子の関平(かんぺい)、都督の趙累(ちょうるい)らを捕らえた。

なお、この年は疫病が流行したため、荊州の民の租税をすべて免除した。

曹操の上表により驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ぜられ仮節(かせつ)を授けられた。さらに荊州牧を兼ねたうえ南昌侯(なんしょうこう)に封ぜられた。

校尉(こうい)の梁寓(りょうぐう)を遣わし朝廷に献上品を捧げるとともに、王惇(おうとん)には馬の買い付けを命じた。また、214年に捕らえていた、もと廬江太守の朱光らを釈放し曹操のところへ帰した。

-220年(39歳)-
1月、曹操が亡くなり、息子の曹丕が跡(魏王〈ぎおう〉・丞相〈じょうしょう〉)を継ぐ。漢(かん)は「建安(けんあん)」を「延康(えんこう)」と改元。

秋、魏の梅敷(ばいふ)が、張倹(ちょうけん)を使者に立て帰順を申し入れてくる。

このころ、南陽郡(なんようぐん)の陰(いん)・鄼(さん)・筑陽(ちくよう)・山都(さんと)・中廬(ちゅうろ)の5県の住民、合わせて5千戸が帰属してくる。

冬、曹丕が皇帝を称し「黄初(こうしょ)」の年号を建てる。

-221年(40歳)-
4月、劉備も皇帝を称し「章武(しょうぶ)」の年号を建てる。

4月、公安から鄂(がく)へ移り、その地を本拠地と定め、鄂を武昌と改める。その際、武昌・下雉(かち)・尋陽(じんよう)・陽新(ようしん)・柴桑(さいそう)・沙羡の6県をもって武昌郡を新設。

5月、建業から「甘露(かんろ)が降った」との報告が届く。

8月、武昌(鄂)に城壁を築く。

?月、曹丕が帝位に即いて以降、藩臣(はんしん)と称してその命を奉じていたが、このころ、219年から身柄を預かっていた于禁らを魏に帰す。

11月、曹丕の使者として邢貞(けいてい)が到着。曹丕から大将軍(だいしょうぐん)・使持節(しじせつ)・督交州(とくこうしゅう)に任ぜられ、従来どおり荊州牧を兼ねるよう命ぜられる。さらに呉王に封ぜられ九錫(きゅうせき)を授けられる。

この年、蜀の劉備が自ら軍勢をひきいて攻め寄せ、巫山(ふざん)や秭帰まで侵出。そこから各地へ使者を遣り、武陵の異民族に爵位や恩賞を約束し、味方に付くよう誘いかけた。

そのため一帯の諸県や五谿(ごけい。武陵近辺の谿谷。異民族が集まって住んでいた地域)の住民が背いて蜀に付いた。これを受け、陸遜に総指揮を執らせ、朱然(しゅぜん)や潘璋らとともに蜀の侵出を防ぎ止めるよう命じた。

この年、都尉の趙咨(ちょうし)を魏へ遣わしたが、曹丕は息子の孫登に爵位を授ける意向を示す。そこで、まだ孫登が幼いことを理由に上書して爵位を辞退し、西曹掾(せいそうえん)の沈珩(しんこう)を遣わし事情を説明させた。この際、領内の特産物を献上した。

この年、息子の孫登を王太子(おうたいし)に立てた。

-222年(41歳)-
1月、陸遜が将軍の宋謙(そうけん)らとともに蜀の5つの拠点を攻め破り、劉備配下の部将たちを斬る。

3月、鄱陽郡から「黄色い龍が現れた」との報告が届く。

この年、蜀軍は分散して険阻な地に拠り、合わせて50余もの砦を築いていたが、陸遜は相手の兵力に応じて対抗し、1月から閏6月までの間に決定的な打撃を与えた。一連の戦いで斬首した者や投降した者は数万に上った。劉備は敗走し、身ひとつで白帝城(はくていじょう)へ逃げ帰った。

魏の使者として、侍中(じちゅう)の辛毗(しんぴ)と尚書(しょうしょ)の桓階(かんかい)がやってくる。

曹丕は呉王として魏に臣従している態度が表面的なものだと見抜いており、息子の孫登を任子(にんし)として魏の朝廷に招きたいと言ってきた。これに対し、孫登にはその資格がないことを理由に辞退した。

9月、こちらの態度に怒った魏が軍勢を進め、曹休(そうきゅう)・張遼・臧霸(そうは)らが洞口(どうこう)まで、曹仁が濡須まで、それぞれ侵入。さらに、曹真(そうしん)・夏侯尚(かこうしょう)・張郃(ちょうこう)・徐晃に南郡が包囲される。

そこで呂範らに命じ、5つの軍をひきいて水軍で曹休らの侵入を食い止めさせ、諸葛瑾・潘璋・楊粲(ようさん)を南郡の救援へ向かわせた。また、朱桓(しゅかん)を濡須督に任じて曹仁にあたらせた。

ただ、このころ揚州(ようしゅう)や越(えつ)の地の多くの異民族が反抗的な態度を取っており、国内でも混乱が続いていた。そのため、魏の曹丕に辞を低くした上書を送り、これまでの過ちを改めたいと願い出る。

ところが、曹丕のほうは重ねて孫登を遣わすよう言ってきたため、「黄武(こうぶ)」の年号を建てて自立する意思を示した。併せて長江沿いの防備を固めた。

11月、大風が吹き、呂範らの配下の兵士に数千の溺死者が出る。そのため残った軍勢を江南へ引き揚げさせた。

11月、魏の曹休が臧霸に命じ、決死隊1万と快速船500艘(そう)をもって丹徒(たんと)の徐陵(じょりょう)を襲撃。攻城車が焼かれ、数千人が殺されたり捕虜になったりした。

これに対して将軍の全琮と徐盛(じょせい)が追撃。魏の部将の尹盧(いんろ)を斬り、数百人を殺したり捕らえたりした。

12月、太中大夫(たいちゅうたいふ)の鄭泉(ていせん)を蜀の劉備のもとに遣わし、呉と蜀の友好関係を回復させる。この年までは依然として魏との往来があったが、翌年(223年)にはその交わりも絶たれた。

この年、夷陵を西陵(せいりょう)と改めた。

-223年(42歳)-
1月、魏の曹真が軍勢を分け、その一隊に江陵の中洲(なかす)を占領される。

1月、夏口の江夏山(こうかざん)に城壁を築く。また、四分暦(しぶんれき)を改め乾象暦(けんしょうれき)を用いることを決める。

3月、魏の曹仁が将軍の常彫(じょうちょう。常雕か?)らを遣わし、兵5千を油船(ゆせん。油を塗った皮をかぶせた船)に乗せ、明け方に濡須の中洲に渡ってくる。

曹仁の息子の曹泰(そうたい)は、そこを足場にして激しく朱桓を攻め立てた。朱桓は手勢で防戦する一方、将軍の厳圭(げんけい)らを遣り常彫を討ち破った。この月(3月)のうちに魏軍はすべて撤退した。

4月、群臣から帝位に即くよう勧進されたものの、承知しなかった。

4月、蜀の劉備が白帝で亡くなり、翌5月に息子の劉禅(りゅうぜん)が跡を継いだ。

5月、曲阿(きょくあ)から「甘露が降った」との報告が届く。

これより先、戯口(ぎこう)を守っていた部将の晋宗(しんそう)が同僚の王直(おうちょく)を殺害し、部下を連れて魏に寝返った。晋宗は曹丕から蘄春太守(きしゅんのたいしゅ)に任ぜられ、しばしば国境地帯を侵犯するようになった。

6月、将軍の賀斉に命じ、麋芳や劉邵(りゅうしょう)らとともに蘄春を攻めさせる。このとき劉邵らは晋宗を生け捕りにした。

11月、蜀の中郎将(ちゅうろうしょう)の鄧芝(とうし)が劉禅の使者としてやってくる。

-224年(43歳)-
夏、輔義中郎将(ほぎちゅうろうしょう)の張温(ちょうおん)を答礼の使者として蜀へ遣わす。

8月、恩赦を行い、死罪の者の罪一等を減ずる。

9月、魏の曹丕が自ら軍勢をひきいて広陵(こうりょう)まで進んできたものの、攻め取るのは難しいと判断し引き揚げていく。

この年、息子の孫和が生まれた。

-225年(44歳)-
5月、丞相の孫邵(そんしょう)が死去。

6月、太常(たいじょう)の顧雍(こよう)を丞相に任ずる。

?月、皖口(かんこう)から「連理の木(れんりのき。根がふたつあり、上で枝がひとつに交わっている木。瑞祥〈ずいしょう〉のひとつ)が見つかった」との報告が届く。

冬、前年に続き、魏の曹丕が10余万の軍勢をひきい広陵まで進んでくる。しかし長江に氷が張ったため引き揚げていった。

12月、鄱陽の賊の彭綺(ほうき)が勝手に将軍を名乗り、周辺の諸県を攻め落とす。一味に加わる者は数万に上った。

この年、たびたび地震が起こった。

-226年(45歳)-
春、令を下して州郡に伝達させ、民を休息させるための方策の実施を命ずる。

5月、魏の曹丕が亡くなり、息子の曹叡(そうえい)が跡を継ぐ。

7月、魏の江夏へ軍勢を進め石陽(せきよう)を包囲したものの、陥すことができずに引き揚げる。

?月、蒼梧(そうご)から「鳳凰(ほうおう)が現れた」との報告が届く。

?月、丹楊・呉郡・会稽の3郡から民情が不穏な10県を分割し、新たに東安郡(とうあんぐん)を設置。全琮を東安太守に任じ山越の討伐にあたらせる。

10月、陸遜が現状に対応するための施策を上言。「恩徳を施し刑罰を緩め、租税を減らして徴用をやめられるように」というもの。

これを受け、担当官吏に命じ法令の条文をすべて書き写させたうえ、それらを郎中(ろうちゅう)の褚逢(ちょほう)に命じて陸遜と諸葛瑾のところへ持っていかせ、問題があると思われる箇所を削除、または増訂させた。

この年、交州を分割し広州(こうしゅう)を新設したが、ほどなくもとに戻した。

-227年(46歳)-
1月、部将たちが、先(225年12月)に蜂起した鄱陽の賊の彭綺を捕らえる。

-228年(47歳)-
3月、息子の孫慮を建昌侯(けんしょうこう)に封ずる。また、226年に設置した東安郡を廃止する。

5月、鄱陽太守の周魴(しゅうほう)が背いたように見せかけ、魏の曹休をおびき寄せる。

8月、自ら皖口へ向かい、陸遜に部将らの指揮を執らせ、石亭(せきてい)で魏の曹休を大破する。

この年、大司馬(だいしば)の呂範が死去した。

この年、合浦郡(ごうほぐん)を珠官郡(しゅかんぐん)と改めた。

-229年(48歳)-
春、公卿(こうけい)や百官から、正式に皇帝を称するよう勧進される。

4月、夏口と武昌から「黄色い龍と鳳凰が現れた」との報告が届く。これを受けて武昌の南郊で帝位に即く。同日に大赦を行い「黄武」を「黄龍(こうりょう)」と改元。

父で破虜将軍(はりょしょうぐん)の孫堅を追尊して武烈皇帝(ぶれつこうてい)の諡号(しごう)を贈り、生母の呉氏に武烈皇后(ぶれつこうごう)、兄で討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)の孫策に長沙桓王(ちょうさのかんおう)の諡号を、それぞれ贈る。

さらに王太子の孫登を皇太子(こうたいし)に立てたうえ、すべての部将と官吏の爵位を進め恩賞を授けた。

5月、校尉の張剛(ちょうごう)と管篤(かんとく)を遼東(りょうとう)へ遣わす。

6月、蜀の使者として衛尉(えいい)の陳震(ちんしん)が着き、帝位に即いたことへの祝意を伝えてくる。

そこで蜀との協議のもとに天下の土地を分かち、「豫州(よしゅう)・青州(せいしゅう)・徐州・幽州(ゆうしゅう)を呉のものとし、兗州(えんしゅう)・冀州(きしゅう)・幷州(へいしゅう)・涼州(りょうしゅう)を蜀のものとし、司州(ししゅう)は函谷関(かんこくかん)を境として両分する」との盟約を結ぶ。

9月、武昌から建業へ遷都。この遷都にあたっては、もともと建業にあった役所を使用することにし、新しく役所を建てないように配慮した。

また、上将軍(じょうしょうぐん)の陸遜を呼び戻し、皇太子の孫登の後見役に任じたうえ、もとの都である武昌の取り締まりにあたらせた。

-230年(49歳)-
この年、詔(みことのり)を下し都講祭酒(とこうさいしゅ)の官を置き、呉の子弟の教育に充てる。

この年、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)を遣わし、武装兵1万をひきいて海を渡り、夷洲(いしゅう)と亶洲(たんしゅう)を探索するよう命じた。しかし、ふたりは亶洲を探し当てることができず、夷洲から数千の住民を連れ帰るにとどまった。

-231年(50歳)-
2月、太常の潘濬(はんしゅん)に5万の軍勢をひきいさせ、武陵の異民族を討伐させる。

?月、夷洲と亶洲の探索で成果を上げられなかった衛温と諸葛直について、ふたりとも投獄したあと誅殺する。

夏、野蚕(やままゆ)が卵ほどの大きさの繭(まゆ)を作る。また、由拳県(ゆうけんけん)では野生の稲が生える。これを受け由拳を禾興(かこう)と改めた。

?月、中郎将の孫布(そんふ)が魏に降ると見せかけ、魏の王淩(おうりょう)の軍勢を誘い出す。

10月、阜陵(ふりょう)に大軍を伏せて王淩を待ち受けたものの、この動きに感づいた王淩は逃げ去ってしまう。

?月、会稽郡の南始平(なんしへい)から「嘉禾(かか。穂がたくさん付いた立派な穀物)が生えた」との報告が届く。

12月、大赦を行い、翌年から「黄龍」を「嘉禾」と改元することを決める。

-232年(51歳)-
1月、息子で建昌侯の孫慮が亡くなる。

3月、将軍の周賀(しゅうが)と校尉の裴潜(はいせん)を海路で遼東へ遣わす。

9月、魏の田豫(でんよ)が周賀と裴潜を迎え撃ち、成山(せいざん)で周賀が斬られる。

10月、魏の遼東太守の公孫淵(こうそんえん)が、校尉の宿舒(しゅくしょ)と郎中令(ろうちゅうれい)の孫綜(そんそう)を遣わし、呉に帰属して藩国になる旨を伝え、併せて貂(テン)の毛皮と馬を献上してくる。これを受け公孫淵に爵位を授ける。

-233年(52歳)-
1月、詔を下し、遼東の公孫淵が宿舒と孫綜を呉に遣わしてきたことを称え、大赦を行う。

3月、宿舒と孫綜を帰国させ、その際に太常の張弥(ちょうび)、執金吾(しつきんご)の許晏(きょあん)、将軍の賀達(がたつ)らに1万の兵をひきいて同行するよう命じ、財宝珍貨と九錫の下賜品を持たせ、海路で遼東の公孫淵に授けることにする。

これに対し丞相の顧雍以下、大臣たちがこぞって思いとどまるよう諫めたが、それらの意見は聞き入れなかった。

その後、公孫淵は張弥らを斬り、その首を魏へ送り兵士と食糧を奪い取った。激怒して自ら公孫淵の討伐に出ようとしたが、尚書僕射(しょうしょぼくや)の薛綜(せつそう)らが口を極めて諫めたので思いとどまることにした。

この年、自ら軍勢をひきいて魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を攻め、将軍の全琮には六安(りくあん)の討伐を命じた。しかし、両方面とも敵を降すことができないまま引き揚げることになった。

-234年(53歳)-
1月、詔を下し、民が兵役に苦しみ、五穀の実りが必ずしも芳しくないことに触れ、税が払えない者たちに対する処分を緩やかにし、これ以上は厳しく取り立てないよう命ずる。

5月、陸遜と諸葛瑾らを遣わして江夏の沔口(べんこう。夏口)に軍営を置かせ、孫韶(そんしょう)と張承(ちょうしょう)らに広陵から淮陰(わいいん)まで軍勢を進めさせたうえ、自身も大軍を指揮して魏の合肥新城を包囲する。

このころ蜀の丞相の諸葛亮が扶風(ふふう)の武功(ぶこう)まで軍勢を進めていたため、魏の曹叡は遠くまで軍勢を動かせないと考えていた。

ところが曹叡は、諸葛亮と対峙していた司馬懿(しばい)に増援を送ったあと、自ら大軍をひきい東へ向かってきた。そのため魏軍が寿春(じゅしゅん)へ着く前に軍勢を引き揚げ、孫韶にも淮陰への遠征を中止させた。

8月、諸葛恪(しょかつかく)を丹楊太守に任じ山越の討伐にあたらせる。

9月、霜が降り穀物に損害を与える。

11月、太常の潘濬が武陵の異民族平定の任務を終え武昌に帰還。

この年、詔を下し、曲阿を雲陽(うんよう)と、丹徒を武進(ぶしん)と、それぞれ改めた。

この年、廬陵(ろりょう)の李桓(りかん)と羅厲(られい)らが反乱を起こす。

-235年(54歳)-
夏、呂岱(りょたい)を遣わし、先に廬陵で反乱を起こした李桓らの討伐にあたらせる。

7月、雹(ひょう)が降る。

この年、魏の曹叡の申し入れに応じ、(魏の)馬と(呉の)珠璣(しゅき。真珠)・翡翠(ひすい)・瑇瑁(たいまい)を交換した。

この年、息子の孫休が生まれた。

-236年(55歳)-
春、大銭(だいせん)を鋳造し、この大銭ひとつが500銭の価値を持つと定める。また、詔を下して官吏や民衆から銅を供出させ、その重さに応じて相当の値段で買い取る。さらに貨幣の盗鋳に対する罰則も定める。

2月、武昌から「礼賓殿(れいひんでん)に甘露が降った」との報告が届く。

?月、輔呉将軍(ほごしょうぐん)の張昭が死去。

?月、中郎将の吾粲(ごさん)が李桓を捕らえ、将軍の唐咨(とうし)が羅厲らを捕らえる。なお李桓と羅厲は、先の234年に廬陵で反乱を起こしていたもの。

夏、呉では昨年10月から雨が降らなくなっていたが、その状況がこの夏まで続いた。

10月、東方に彗星が現れる。

この年、鄱陽の彭旦(ほうたん)らが反乱を起こした。

-237年(56歳)-
1月、詔を下し、「肉親が亡くなったとき、すべての職務を放棄して葬儀に駆けつけることは許さない」という現在の規定について、その是非を詳しく再検討するよう命ずる。

2月、陸遜が彭旦らを討伐し、この年のうちにすべて討ち破った。

10月、衛将軍(えいしょうぐん)の全琮を遣わし六安を攻めさせたが、戦果を挙げることはできなかった。

この年、諸葛恪が山越平定の任務を終え、北に出て廬江に軍勢を駐屯させた。

-238年(57歳)-
春、再び大銭を鋳造し、この大銭ひとつが1千銭の価値を持つと定める。

夏、呂岱が廬陵の反徒を討伐し終え、軍勢を還して陸口へ戻る。

8月、武昌から「麒麟(キリン)が現れた」との報告が届く。先に自身が宮殿の前庭で赤い烏(カラス)を見ていたことから、「嘉禾」を「赤烏(せきう)」と改元する。

この年、夫人の歩氏(ほし)が亡くなったため皇后の位を追贈した。

この年、信任していた校事(こうじ)の呂壱(りょいつ)に悪事が発覚したため誅殺。過ちを認めて自身を責め、中書郎(ちゅうしょろう)の袁礼(えんれい)を遣わし、各軍の指揮官に陳謝の言葉を伝えさせるとともに、現在の施策に改めるべき点がないか尋ねさせた。

-239年(58歳)-
1月、魏の曹叡が亡くなり、養子の曹芳(そうほう)が跡を継ぐ。

3月、使者として羊衜(ようどう)と鄭胄(ていちゅう)、さらに将軍の孫怡(そんい)を遼東へ遣わし、魏の張持(ちょうじ)と高慮(こうりょ)らを討たせ、その配下の男女を捕虜にする。

?月、零陵から「甘露が降った」との報告が届く。

5月、沙羡に城壁を築く。

10月、将軍の蔣秘(しょうひ)が南へ軍勢を進め、呉に反抗する異民族を討伐。この際、蔣秘配下の都督の廖式(りょうしょく)は臨賀太守(りんがたいしゅ)の厳綱(げんこう)らを殺害し、勝手に平南将軍(へいなんしょうぐん)を名乗った。

廖式は弟の廖潜(りょうせん)とともに零陵郡や桂陽郡を攻め、交州の蒼梧(そうご)や鬱林(うつりん)といった諸郡にも動揺を与えた。一味に加わる者も数万人に上った。そこで将軍の呂岱と唐咨を討伐に差し向け、1年余りですべて討ち破った。

-240年(59歳)-
1月、詔を下し、督軍(とくぐん)と郡守(ぐんしゅ。太守)は法を守らない者を注意深く察知し、農桑のときに労役で民を乱す者を摘発して上聞するよう命ずる。

4月、大赦を行う。また郡県に詔を下し、城郭を修理して物見の楼を建て、塹壕(ざんごう)や堀を掘り群盗に備えるよう命ずる。

11月、国内に飢餓が広がったため、公の倉庫を開き貧窮者を救済させる。

-241年(60歳)-
1月、大雪が降り平地に3尺(せき)も積もる。このため多くの鳥獣が死ぬ。

4月、衛将軍の全琮に魏の淮南(わいなん)の攻略を命ずる。全琮は芍陂(しゃくひ)を決壊させ、寿春近くの安城(あんじょう)の邸閣(ていかく。食糧貯蔵庫)を焼き、その地の住民を捕虜にした。また、威北将軍(いほくしょうぐん)の諸葛恪は魏の六安を攻めた。

全琮は芍陂で魏の王淩と戦ったものの、この戦いで呉の中郎将の秦晃(しんこう)ら10余人が戦死した。車騎将軍の朱然は魏の樊(はん)を包囲し、大将軍の諸葛瑾は柤中(そちゅう)を占領した。

5月、息子で皇太子の孫登が薨去(こうきょ)。

5月、魏の太傅(たいふ)の司馬懿が樊の救援に到着したため、6月には各地へ出撃していた軍勢を引き揚げる。

閏6月、大将軍の諸葛瑾が死去。

8月、陸遜が江夏の邾(ちゅ)に城を築く。

-242年(61歳)-
1月、孫和を皇太子に立て、併せて大赦を行う。また、禾興を嘉興(かこう)と改める。

1月、群臣から、妃を皇后に、4人の息子たちを王に、それぞれ立てるよう乞われたものの、詔を下し許可しない旨を伝える。

3月、海塩県(かいえんけん)から「黄色い龍が現れた」との報告が届く。

4月、珍貴な品を献上することを禁じ、太官(たいかん。宮中の飲食を担当する)がつかさどる膳部(ぜんぶ)を簡素なものにさせる。

7月、将軍の聶友(じょうゆう)と校尉の陸凱(りくかい)を遣わし、3万の兵で珠崖(しゅがい)と儋耳(たんじ)を討伐させる。

8月、担当官吏から重ねて皇后と諸王を立てるよう上奏があったため、息子の孫霸を魯王(ろおう)に封ずる。

この年、ひどい疫病が流行した。

この年、孫の孫晧(そんこう)が生まれた。

-243年(62歳)-
1月、新都郡から「白い虎が現れた」との報告が届く。

?月、諸葛恪が、魏の六安に軍勢を進めて謝順(しゃじゅん)の軍営を討ち破り、その地の住民を捕虜にする。

11月、丞相の顧雍が死去。

12月、扶南王(ふなんおう。カンボジア)の范旃(はんせん)の使者が着き、楽人(がくじん)と扶南の特産品を献上される。

この年、魏の司馬懿が舒(しょ)に侵攻。その先鋒を避けるため、諸葛恪は皖から柴桑へ軍勢を移した。

この年、息子の孫亮が生まれた。

-244年(63歳)-
1月、上大将軍(じょうだいしょうぐん)の陸遜を丞相に任ずる。

秋、宛陵(えんりょう)から「嘉禾が生えた」との報告が届く。

この年、歩騭(ほしつ)と朱然らから上疏があり、蜀に不穏な動きが見られるとして、寝返りへの備えを求められた。しかし、現状を見極めて聞き入れず、実際のところも蜀にそうした企てはなかった。

-245年(64歳)-
2月、丞相の陸遜が死去。

夏、宮門の柱に落雷があり、同じく南津(なんしん。都の建業の朱雀大路〈すざくおおじ〉の南端にあった秦淮河〈しんわいが〉に架かる橋)の標柱にも落雷があった。また、長沙郡の茶陵県(やりょうけん)で河川の氾濫によって洪水が起こり、民家200余戸を押し流した。

7月、将軍の馬茂(ばぼう)らが謀反を企んだため一族皆殺しとする。

8月、大赦を行う。

この年、校尉の陳勲(ちんくん)を遣わし、屯田兵と工兵3万をひきいて句容中道(こうようちゅうどう)に運河を掘らせ、小其(しょうき)と曲阿の雲陽および西城(せいじょう)を結ぶ。その地には商人の交易場を整備し食糧倉庫を建てさせた。

-246年(65歳)-
2月、車騎将軍の朱然が魏の柤中へ軍勢を進め、1千余人を斬ったり捕虜にする。

4月、武昌から「甘露が降った」との報告が届く。

9月、驃騎将軍の歩騭を丞相に、車騎将軍の朱然を左大司馬(さだいしば)に、衛将軍の全琮を右大司馬(ゆうだいしば)に、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の呂岱を上大将軍に、威北将軍の諸葛恪を大将軍に、それぞれ任ずる。

-247年(66歳)-
1月、右大司馬の全琮が死去(249年のことともあり、はっきりしない)。

2月、南宮(なんぐう。建業宮の南の秦淮河近くにあった宮殿)へ行幸。

3月、都の建業で太初宮(たいしょきゅう)の改築を行い、諸将や州郡の長官たちも労働奉仕に加わる。

5月、丞相の歩騭が死去。

10月、死刑囚に対して恩赦を与える。

-248年(67歳)-
1月、朱然が江陵に城壁を築く。

2月、何度も地震が起こる。

3月、建業宮が完成する。

4月、雹が降る。また、雲陽(曲阿)から「黄色い龍が現れた」との報告が届く。

5月、鄱陽から「白い虎が現れ、それが仁(じん)である」との報告が届く。

-249年(68歳)-
3月、左大司馬の朱然が死去。

4月、2羽の烏が鵲(カササギ)をくわえ、東館に落ちるという凶事が起こる。そこで驃騎将軍の朱拠が丞相を代行して鵲を焼き、祭りを執り行う。

6月、塩官(えんかん)の臨平湖(りんぺいこ)から「宝鼎(ほうてい)が見つかった」との報告が届く。

8月、章安(しょうあん)から「白い鳩が現れた」との報告が届く。

-250年(69歳)-
5月の夏至の日、熒惑星(けいわくせい。火星)が南斗(なんと)の星座に入り、7月には魁(かい。北斗七星〈ほくとしちせい〉)の第2星を犯して東へ進む。

8月、丹楊・句容・故鄣(こしょう)・寧国(ねいこく)の各所で山崩れが起こり、洪水になる。そこで詔を下し、租税の払えない者を赦したうえ種や食糧を貸し与える。

?月、皇太子の孫和を廃し故鄣に幽閉したうえ、同じく息子で魯王の孫霸には自殺を命ずる。

10月、魏の文欽(ぶんきん)が呉への寝返りを装い朱異(しゅい)をおびき寄せようとする。この際、呂拠を朱異のもとに遣わし文欽を迎えさせようとした。しかし、朱異らが慎重な行動を取ったので、警戒した文欽は結局やってこなかった。

11月、孫亮を皇太子に立てる。

11月、10万の軍勢を遣わし、堂邑(どうゆう)に涂塘(じょとう)を築かせる。これにより、北方との通路を水浸しにして魏軍の南進の障害にしようとした。

12月、魏の征南将軍(せいなんしょうぐん)の王昶(おうちょう)が南郡を包囲。同じく魏の荊州刺史(けいしゅうしし)の王基(おうき)が西陵へ攻め寄せる。これに対して将軍の戴烈(たいれつ)と陸凱を遣わし防がせると、魏の両将は兵をまとめて引き揚げた。

この年、神人(しんじん)が現れて書き物を手渡し、「改元を行い、皇后を立てるように」と告げた。

-251年(70歳)-
5月、潘氏(はんし)を皇后に立てたうえ大赦を行い、「赤烏」を「太元(たいげん)」と改元。

5月、中書郎の李崇(りすう)を遣わし、以前から臨海郡(りんかいぐん)の羅陽県(らようけん)に住んでいた王表(おうひょう)と名乗る神に輔国将軍(ほこくしょうぐん)・羅陽王(らようおう)の印綬(いんじゅ)を授けて迎える。

7月、王表が李崇とともに都(建業)に到着。蒼龍門(そうりょうもん。建業の東門)の外に屋敷を建ててやり、しばしば側仕えの臣下に酒食を持たせて王表を訪ねさせた。王表は水害や日照りなどの小さな事柄について予言し、それがよく的中した。

8月、大風が吹いて長江や海があふれ、平地にも深さ8尺の水がつく。呉郡では高陵(こうりょう。孫堅の陵)の松柏(しょうはく)が抜け、郡城の南門が吹き飛ばされて壊れた。

11月、大赦を行う。都の南郊で祭祀を執り行うが、それを終えて帰ったあと病気になって寝つく。

12月、大将軍の諸葛恪を駅馬で召し還し、太子太傅(たいしたいふ)に任ずる。また、詔を下して徭役(ようえき)をやめ、軍事税を減らして民の苦しみを除く。

-252年(71歳)-
1月、もとの皇太子の孫和を南陽王(なんようおう)に封じて長沙に、同じく息子の孫奮を斉王(せいおう)に封じて武昌に、同じく息子の孫休を琅邪王(ろうやおう)に封じて虎林(こりん)に、それぞれ置く。

2月、大赦を行い、「太元」を「神鳳(しんほう)」と改元。

2月、皇后の潘氏が崩御。

?月、部将や官吏が王表のもとを訪れ、孫権のために福を乞うたところ、王表が逃亡してしまう。

4月、崩御。

管理人「かぶらがわ」より

孫権は、若くして亡くなった兄の孫策から19歳のときに江東を託されましたが、自身の存命中に地盤を失うことはありませんでした。魏蜀両国を相手にしたたかな立ち回りを見せており、バランス感覚にも優れた人物だったようです。

ただ、晩年には後継者問題でのつまずきがありました。

241年に長男で皇太子だった孫登を亡くしたあと、翌242年には三男の孫和を皇太子に立てました(次男の孫慮は232年に20歳で亡くなっています)。

ところが同年8月、孫和の弟にあたる四男の孫霸を魯王に封じて溺愛したため、呉を二分した皇太子派と魯王派の権力争いを招いてしまいます。

この争いは250年8月、孫和を廃位して故鄣に幽閉し、孫霸には自殺を命ずるという悲しい形で決着をつけることになりました。孫権の跡を継いだのは末子(七男)の孫亮ということに。

難しい局面を乗り切ってきた青年期や壮年期とのギャップが大きすぎる晩年の孫権。いったいどうしたのでしょうね?
「呉の孫氏」収録人物一覧
呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族の関連記事のリストです。こちらから各人の個別記事がご覧いただけます。
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
人物データ 呉の孫氏
このページをシェアする
「かぶらがわ」をフォローする
今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

コメント

タイトルとURLをコピーしました