孫策(そんさく) ※あざなは伯符(はくふ)、呉(ご)の長沙桓王(ちょうさかんおう)

【姓名】 孫策(そんさく) 【あざな】 伯符(はくふ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 175~200年(26歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫策伝』あり。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の兄、長沙桓王(ちょうさかんおう)

父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。

同母弟には孫権・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)がおり、異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。また、妹の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。

息子の孫紹(そんしょう)は跡継ぎ。ほかに顧邵(こしょう。顧劭)・朱紀(しゅき)・陸遜(りくそん)に、それぞれ嫁いだ娘もいた。

229年4月に孫権が呉の帝位に即いた際、長沙桓王と諡(おくりな)された。

主な経歴

-175年(1歳)-
この年、誕生。

-184年(10歳)-
3月(2月とも)、黄巾(こうきん)の乱が勃発。孫堅が、朝廷から討伐に派遣された中郎将(ちゅうろうしょう)の朱儁(しゅしゅん)の下で佐軍司馬(さぐんしば)を務める。

-190年(16歳)-
1月、袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓(とうたく)連合軍が決起し、孫堅も参加。その際、孫策は母たちを連れて舒県(じょけん)へ移り、同い年だった周瑜(しゅうゆ)と知り合い、固い友情を結んだ。

-192年(18歳。もしくは191年〈17歳〉)-
この年、襄陽(じょうよう)の劉表(りゅうひょう)を包囲していた孫堅が、郊外の峴山(けんざん)を単騎で駆けていた際、黄祖配下の兵士が放った矢が当たり(異説もある)急死。

孫策は父の遺骸を曲阿(きょくあ)に葬り、葬儀を終えた後、長江(ちょうこう)を渡って江都(こうと)へ移った。

しかし、徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)からひどく嫌われたため、再び母たちを曲阿へ移したうえ、自身は孫河(そんか)や呂範(りょはん)とともに、丹楊太守(たんようたいしゅ。丹陽太守)を務める叔父の呉景(ごけい)のもとに身を寄せた。

-194年(20歳)-
この年、今度は袁術(えんじゅつ)のもとに身を寄せた。袁術は、孫策が父の跡を継いで配下に加わったことを喜び、孫堅の旧臣を孫策の手に戻した。

この年、関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)の安撫(あんぶ)のため太傅(たいふ)の馬日磾(ばじってい)が寿春(じゅしゅん)にいたとき、孫策は丁重な礼によって召される。その上表を受けて懐義校尉(かいぎこうい)に任ぜられた。

この年、袁術を説得し、叔父の呉景に加勢して、江東(こうとう)の平定に向かう許しを得る。

このとき孫策は袁術から1千余の兵と数十頭の馬を借り受け、その上表により折衝校尉(せっしょうこうい)の官を授けられ、殄寇将軍(てんこうしょうぐん)を兼ねた。

だが歴陽(れきよう)に到着したころには、軍勢は5、6千まで増えており、各地で劉繇軍(りゅうようぐん)を撃破した。

その際、すでに曲阿から歴陽へ移っていた母たちを阜陵(ふりょう)へ移し、自身は長江を渡って江東の平定にあたった。

-?年(?歳)-
この年、袁術の命を受け、廬江太守(ろこうたいしゅ)の陸康(りくこう)を攻め破る。

ところが袁術は(孫策を太守に起用するという)約束を破り、新たな廬江太守として故吏(以前の部下)の劉勲(りゅうくん)を起用した。

これ以前、袁術は孫策に九江太守(きゅうこうたいしゅ)への起用を約束したことがあったが、そのときも約束を破って陳紀(ちんき)を起用しており、こうしたことは初めてではなかった。

この陸康を攻め破った年がイマイチはっきりしなかった。

-196年(22歳)-
この年、呉郡の厳白虎(げんぱくこ。厳虎)や会稽太守(かいけいたいしゅ)の王朗(おうろう)らを撃破。自ら会稽太守を兼ねる一方、叔父の呉景を丹楊太守に戻し、従兄の孫賁(そんほん)を豫章太守(よしょうたいしゅ)に任じた。

さらに豫章郡を分割して廬陵郡(ろりょうぐん)を新設し、孫賁の弟の孫輔(そんほ)を廬陵太守に起用。また、朱治(しゅち)を呉郡太守に任じた。

このころ、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)・秦松(しんしょう)・陳端(ちんたん)らが参謀として配下に加わった。

-197年(23歳)-
春、袁術が皇帝を僭称(せんしょう)したため、(張紘〈張昭とも〉に命じて書かせたという)手紙を送って非難したうえ関係を絶つ。

夏、議郎(ぎろう)の王誧(おうふ)が勅使としてやってくる。

孫策は詔(みことのり)によって騎都尉(きとい)に任ぜられ、(孫堅の)烏程侯(うていこう)の爵位を継いだうえ、会稽太守を兼ねることが認められる。

その際、行呉郡太守(こうごぐんたいしゅ)・安東将軍(あんとうしょうぐん)の陳瑀(ちんう)とともに、袁術を討伐するよう命ぜられた。

このとき、騎都尉として会稽太守を兼ねるのでは官が軽すぎると考え、それとなく王誧に(将軍号がほしいという)希望を伝えたところ、すぐに王誧は自分の権限で、仮の明漢将軍(めいかんしょうぐん)に任じてくれた。

この年(もしくは196年)、奉正都尉(ほうせいとい)の劉由(りゅうゆう)と五官掾(ごかんえん)の高承(こうしょう)を許(きょ)へ遣わし、献帝(けんてい)に上奏文を奉って献上品を届けさせた。

-198年(24歳)-
この年、再び許へ使者を遣わし、献帝に献上品を届けさせた。

この年、曹操(そうそう)の上表により、討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)に任ぜられ、呉侯(ごこう)に封ぜられた。

-199年(25歳)-
6月、根拠地を失った袁術が、袁紹(えんしょう)を頼って北上したものの、道中で病死する。

この年、孫策は廬江太守の劉勲と一時的な同盟を結んだうえ、計略を用いて廬江を急襲。敗れた劉勲は数百の配下だけを連れて、曹操のもとに身を寄せた。

このころ曹操の申し出を受け入れ、同母弟の孫匡が曹操の弟の娘を娶(めと)り、従兄の孫賁の娘を、曹操の息子の曹章(そうしょう。曹彰)に嫁がせた。

さらに同母弟の孫権と孫翊が、曹操から手厚い礼をもって招かれ、それぞれ官職に就いた。孫権については、曹操の命を受けた揚州刺史(ようしゅうしし)の厳象(げんしょう。厳像)によって茂才(もさい)に推挙された。

-200年(26歳)-
この年、曹操と袁紹が官渡(かんと)で対峙(たいじ)したので、その隙を突いて許を急襲し、献帝を迎えるという計画を立てた。

孫策は秘密裏に兵士を訓練し、部将にも任務を与えていたものの、行動を起こす前、もとの呉郡太守である許貢(きょこう)の食客の襲撃を受けて重傷を負い、ほどなく亡くなった。

管理人「かぶらがわ」より

前の孫堅の個別記事で、孫堅の没年が192年なのか、191年なのか、イマイチはっきりしないという件に触れました。

それは『三国志』(呉書・孫堅伝)に、孫堅が亡くなった年が初平(しょへい)3(192)年である、と書かれているためです。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』には、198年に孫策が献帝に奉った、詔に対する謝意を示した上表文が載せられており、その中で父の孫堅を17歳の時に亡くしたことを述べています。

裴松之は、本伝に「孫策が建安(けんあん)5(200)年に亡くなり、そのとき26歳だった(つまり175年生まれ)」とあることに着目。

「もし孫堅が亡くなったのが初平3(192)年なら、当時の孫策は17歳ではなく18歳だったことになり、『呉録』にある上表文の内容とも矛盾する」と述べたうえ――。

張璠(ちょうはん)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』や胡沖(こちゅう)の『呉歴(ごれき)』が、孫堅の死を初平2(191)年としていることも挙げ、「『孫堅伝』のほうが誤りだ」と結論づけています。

孫策の死については、吉川『三国志』や『三国志演義』では許貢の食客に加え、于吉(うきつ)の逸話も絡めて描いていました。

このあたりは、本伝の裴松之注に引かれた虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』、虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』、干宝(かんぽう)の『捜神記(そうじんき)』といったところが元ネタらしい。

本伝に、孫策が許を急襲して献帝を迎えようとしたとあることについても、孫盛(そんせい)が『異同評(いどうひょう)』の中で述べた、「当時の孫策にそのような余力はなかった」という見解に対し、裴松之がさらに自分の考えを述べていたりして、なかなか深みのあるやり取りだと感じました。

陳寿(ちんじゅ)は評の中で、「孫策の息子の孫紹が、呉侯や上虞侯(じょうぐこう)といった諸侯の扱いにとどまっていたことは、道義の点で欠けるものがある」と指摘。

「孫策が呉の建国に果たした役割の大きさを考えれば、孫権の孫策に対する尊崇の念は決して十分なものではなかった」と述べています。

この評について孫盛は、孫権が孫紹を諸侯にとどめたのは、貴賤(きせん)の区別をはっきりとつけることで、内部分裂を防ぐ目的があったと分析。

「万全とまでは言えないものの、遠い将来を見通して末永く国土を保つという点から見れば、事が起こらぬ先に手を打ち、乱れぬ先に治めたものだと言える」と評価しています。

まぁ、孫紹が大国の王に封ぜられたら、確かに呉の内紛のタネになっていたかも。ですが孫権は、なぜ孫策の諡号(しごう)まで長沙桓王にとどめたのでしょうね?

そして魅力的な人物には、なぜこうも早く亡くなってしまう例が多いのか――。孫策の死は、その後に到来する三国時代にも大きな影響を与えたことは間違いありません。

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