孫堅(そんけん) ※あざなは文台(ぶんだい)、呉(ご)の武烈皇帝(ぶれつこうてい)

【姓名】 孫堅(そんけん) 【あざな】 文台(ぶんだい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 156?~192年?(37歳?)

【吉川】 第012話で初登場。
【演義】 第002回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫堅伝』あり。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の父、武烈皇帝(ぶれつこうてい)

父母ともに不詳。孫羌(そんきょう)は同母兄で、孫静(そんせい)は弟。

跡を継いだ孫策(そんさく)をはじめとして、孫権・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)・孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)という5人の息子を儲けた。また、娘の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。

229年4月に孫権が呉の帝位に即いた際、武烈皇帝と諡(おくりな)された。

主な経歴

-156年(もしくは155年)-
この年、誕生。

-172年(もしくは171年)-
17歳の時、父とともに銭唐(せんとう)へ出かけた際、たまたま出くわした海賊の胡玉(こぎょく)らを、機転を利かせて追い散らした。このことで名が知られるようになり、役所から召されて仮尉(かい)に任ぜられた。

この年、会稽(かいけい)の許昌(きょしょう)と息子の許昭(きょしょう。許韶)が、句章(こうしょう)で反乱を起こした。このとき孫堅は、郡の司馬(しば)として武芸に優れた1千余人を集め、州郡の兵とともに反乱の鎮圧にあたる。

功により塩瀆県丞(えんとくけんじょう)に任ぜられ、数年後には盱眙県丞(くいけんじょう)に移り、さらに下邳県丞(かひけんじょう)に移った。

-175年-
この年、息子の孫策が生まれた。

-182年-
この年、息子の孫権が生まれた。

-184年-
3月(2月とも)、黄巾(こうきん)の乱が勃発。朝廷から討伐に派遣された中郎将(ちゅうろうしょう)の朱儁(しゅしゅん)の下で佐軍司馬(さぐんしば)を務める。

賊が逃げ込んだ宛城(えんじょう)を攻略した功により、別部司馬(べつぶしば)に任ぜられた。

-186年-
この年、車騎将軍(しゃきしょうぐん)を兼任した司空(しくう)の張温(ちょうおん)の参謀として、辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の討伐に従軍。

張温は天子(てんし)の詔(みことのり)をもって董卓(とうたく)を召し寄せたものの、董卓は到着が遅れたうえに不遜な態度を取る。孫堅は董卓を処刑するよう進言したが、張温は容れなかった。

辺章と韓遂の軍勢は、朝廷の大軍が来ると聞くと四散する。

こうして討伐軍は凱旋(がいせん)したが、「まだ敵と対陣していなかった」との意見が出たため、軍功の認定と恩賞の沙汰は行われなかった。

それでも、孫堅が張温に董卓の処刑を進言したという話を聞き、感嘆しない者はいなかった。ほどなく孫堅は議郎(ぎろう)に任ぜられた。

-187年-
この年、区星(おうせい)が長沙(ちょうさ)で反乱を起こしたため、長沙太守(ちょうさたいしゅ)に任ぜられて鎮圧に向かう。孫堅は自ら将士をひきいて戦い、ひと月もしないうちに撃破した。

これに続き、区星に呼応して零陵(れいりょう)と桂陽(けいよう)で反乱を起こした周朝(しゅうちょう)と郭石(かくせき)も討伐。

長沙・零陵・桂陽の3郡における反乱鎮圧の功により、烏程侯(うていこう)に封ぜられた。

-189年-
4月、霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)して少帝(しょうてい。劉辯〈りゅうべん〉)が即位する。

9月、董卓が少帝を廃して、陳留王(ちんりゅうおう)の劉協(りゅうきょう)を帝位に即ける。

董卓は朝政を牛耳るようになり、ほしいままに振る舞った。これを受けて各地で董卓討伐の義勇軍が起ち上がり、孫堅も挙兵した。

-190年-
この年、荊州(けいしゅう)へ軍勢を進め、日ごろから無礼な態度を取っていた荊州刺史(けいしゅうしし)の王叡(おうえい)を殺害する。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、王叡は自殺したという。

さらに南陽(なんよう)へ進み、通知したのに道路が補修されていなかったことや、兵糧が用意されていなかったことなどを責め、南陽太守の張咨(ちょうし)を処刑した。

魯陽(ろよう)まで進んで袁術(えんじゅつ)と会見。

孫堅は袁術の上表によって破虜将軍(はりょしょうぐん)と豫州刺史(よしゅうしし)を兼任することになり、魯陽で兵士の訓練にあたった。

梁(りょう)の東へ軍営を移した後、董卓の大軍が攻め寄せる。

孫堅は数十騎で包囲を突破し、間道づたいに逃げ延びたが、このときは孫堅愛用の幘(さく。頭巾)を代わりにかぶった祖茂(そぼう)の機転があった。

再び兵をまとめ、董卓軍を陽人(ようじん)で大破。董卓配下の都尉(とい)の華雄(かゆう)らを斬った。

その後、董卓の官職をちらつかせた和睦要請を一蹴し、軍勢を洛陽(らくよう)まで90里の大谷(たいこく)へ進める。

董卓は長安(ちょうあん)への遷都を強行(2月のこと)し、ほどなく洛陽を焼き払えとの命を下していた(3月のこと)。

孫堅は洛陽への入城を果たすと、董卓に荒らされた歴代の皇帝の陵墓を修復。その作業を終えると魯陽へ戻った。

本伝の裴松之注に引く韋昭(いしょう)の『呉書(ごしょ)』によると、このとき孫堅は、軍勢を留めていた洛陽城南の甄官井(しんかんせい。井戸)から伝国璽(でんこくじ)を得たという。

-192年(もしくは191年)-
この年、袁術の命を受けて荊州の劉表を攻める。劉表配下の黄祖(こうそ)を樊城(はんじょう)・鄧城(とうじょう)付近で撃破し、敗軍を追って漢水(かんすい)を渡った。

そのまま孫堅は襄陽(じょうよう)を包囲したものの、郊外の峴山(けんざん)を単騎で駆けていた際、黄祖配下の兵士が放った矢に当たって亡くなった。

本伝の裴松之注に引く張勃の『呉録』によると、このとき37歳だったという。なお孫堅の死については、その時期も含めて異説が多い。

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管理人「かぶらがわ」より

孫堅の没年が192年なのか191年なのか、イマイチはっきりしません。かなり名の知れた大物なのに不思議な感じがします。

本伝の冒頭部分では「(孫堅は)おそらく孫武(そんぶ。孫子〈そんし〉。春秋〈しゅんじゅう〉時代の人。『孫子〈呉孫子兵法〉』で有名)の子孫なのだろう」とありましたが、これはどう見ればいいのでしょうか?

孫堅や孫策は勇敢さや用兵の巧みさが目立つので、まったく根拠がないとまでは言えないか。劉備が前漢(ぜんかん)の景帝(けいてい)の末裔(まつえい)だというのと似たようなものかも……。

孫堅の経歴を見ていくと、やはり軍功が多いです。学識のほうはよくわかりませんが、息子たちのデキからすると、力強い父親だったことが想像できますね。

ただ、一方で軽率なところもあったようで……。

黄祖の配下に射殺されたのか、呂公(りょこう)の配下が落とした石が当たって死んだのかはともかく、実にあっけない最期でした。

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