呂壱(りょいつ)

【姓名】 呂壱(りょいつ) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~238年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

孫権(そんけん)の寵愛を背景に、呉(ご)の重臣を数多く陥れる

父母ともに不詳。

呂壱は、孫権の下で中書典校(ちゅうしょてんこう)として文書や行政全般を監督したが、職務で知り得た情報を悪用し、数多くの重臣を弾劾した。

呂壱が中書典校を務めるまでの経緯や、なぜ孫権に寵愛されていたかに関する記事はなかった。

見かねた皇太子の孫登(そんとう)が、呂壱の重用をやめるよう諫めても、孫権は聞き入れようとしない。

驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の歩騭(ほしつ)や太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)らも、たびたび呂壱の悪辣さを訴えたが、やはり孫権に容れられなかった。

238年、羊衜(ようどう)らに見いだされて郎(ろう)に取り立てられた李衡(りこう)が、孫権の御前で数千言を費やし、呂壱の悪事について述べ立てる。

これを聴いた孫権は、ようやく恥じ入る様子を見せたという。

それから数か月後、ついに呂壱は誅殺された。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)や『三国志』(呉書・孫休伝〈そんきゅうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『襄陽記(じょうようき)』などによるもの。

呂壱に陥れられた重臣として、顧雍(こよう)・朱拠(しゅきょ)・鄭冑(ていちゅう)・刁嘉(ちょうか)の名が見えますが、エピソードとして採り上げきれないほどの讒訴(ざんそ)があったことがうかがえました。

『三国志』(呉書・是儀伝〈しぎでん〉)でも、呂壱の弾劾は宰相から重臣まで幅広い対象に及んでおり、時にはひとりが何度も弾劾されることさえあったといいます。

後の孫晧(そんこう)の時代とは違い、讒訴を受けて処刑された重臣こそいなかったようですが、皆が何も意見を言わなくなるほど萎縮していた様子が伝わってきます。

ひとりの寵臣が、ここまで大きな混乱を引き起こしてしまう。国の崩壊は外圧によるものとは限らない……。

呂壱の一件ではかなり危ないところでしたが、いくらか冷静さを残していた孫権の判断により、呉は崩壊を免れました。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました