【姓名】 闞沢(かんたく) 【あざな】 徳潤(とくじゅん)
【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん)
【生没】 ?~243年(?歳)
【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・闞沢伝』あり。
農家の出身ながら封侯まで昇った学者
父母ともに不詳。
闞沢は代々の農家に生まれたものの学問を好み、紙筆の代金を稼ぐために筆耕を引き受けたりもしたが、預かった書物を写し終えるころには暗唱できるようになっていた。
そのうち師となる人物を捜し求めて自分の考えを説いて回り、多くの書物を通覧する。暦の計算に精通していたこともあり、彼の名は人々に知られるようになった。
やがて孝廉(こうれん)に推挙されて銭唐県長(せんとうけんちょう)となり、後に郴県令(ちんけんれい)に昇進。
219年、孫権(そんけん)が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)になると、闞沢は招かれて西曹掾(せいそうえん)を務める。
229年、孫権が帝位に即くと、闞沢は尚書(しょうしょ)となり、嘉禾(かか)年間(232~238年)には中書令(ちゅうしょれい)・侍中(じちゅう)を務めた。
242年、闞沢は皇太子の孫和(そんか)の太子太傅(たいしたいふ)に任ぜられ、これまで通り中書令も兼ねる。
闞沢は、経書や解釈書の文章が煩多であり、そのまま用いるのは難しいと考えていた。
そこで諸家の説を比較したうえ、礼における経文と注釈を簡略化し、それを孫和と魯王(ろおう)の孫霸(そんは)に教授した。
さらにふたりのために、外出時や賓客との接見時の作法も定めた。
また『乾象暦注(けんしょうれきちゅう)』を著し、季節や日付が暦と合うようにした。
朝廷で重要なことが議論されたり、経典(けいてん)に関する疑義が生じたときは、いつも闞沢の意見が求められる。彼は儒学に励んで功労があったため、都郷侯(ときょうこう)に封ぜられた。
翌243年、闞沢が死去すると孫権は痛惜し、数日の間は食事を取らなかったという。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、闞沢の人柄は謙虚かつ実直で、下級官吏を呼んで質問する際にも対等の礼を執ったそうです。そして、他人の欠点を決して口にすることがなかったのだとか。
こういう態度で何事にも臨んでいたのなら、確かに彼と敵対する人は少なかったでしょうね。
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