張燕(ちょうえん)

【姓名】 張燕(ちょうえん) 【あざな】 ?

【原籍】 常山郡(じょうざんぐん)真定県(しんていけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第083話で初登場。
【演義】 第011回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張燕伝』あり。

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黒山賊(こくざんぞく)の首領から将軍に転身

父母ともに不詳。息子の張方(ちょうほう)は跡継ぎ。

張燕は、もとの姓を褚(ちょ。褚燕)といった。

184年、黄巾賊(こうきんぞく)が蜂起すると、張燕は若者を集めて盗賊団を結成し、山沢地帯を根城に各地を荒らした。真定県へ戻ったときには、配下が1万を超える数になっていた。

そのころ張牛角(ちょうぎゅうかく)も、仲間を集めて将兵従事(しょうへいじゅうじ)と称しており、張燕と合流した。張燕は張牛角を頭目に推し立て、ともに癭陶(えいとう)を攻めた。

しかしこの戦いで、張牛角が矢を受けて負傷。必ず褚燕(張燕)を頭目にするように、と言い残して亡くなる。

そこで張燕が頭目を引き継ぐことになり、姓を張と改めた。彼は剽悍(ひょうかん)かつ敏捷(びんしょう)で、軍中では飛燕(ひえん)と呼ばれていた。

その後、さらに配下の数が増え、常山・趙郡(ちょうぐん)・中山(ちゅうざん)・上党(じょうとう)・河内(かだい)の諸山谷の賊徒とも誼(よしみ)を通じた。

そうした小頭目の孫軽(そんけい)や王当(おうとう)らが、手勢をひきいて張燕に従ったため、その数は100万にも達し、黒山と号した。

霊帝(れいてい)は彼らを討伐できず、河北(かほく)の諸郡が被害を受ける。やがて張燕は、洛陽(らくよう)に使者を遣わして降伏を願い出、平難中郎将(へいなんちゅうろうしょう)に任ぜられた。

190年2月、董卓(とうたく)が献帝(けんてい)を脅迫し、長安(ちょうあん)への遷都を強行したころ、次々と義兵が決起する。そこで張燕も軍勢を整え、そうした豪傑らと手を結ぶ。

192年から、袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)が冀州(きしゅう)を巡って争うと、張燕は配下の将軍の杜長(とちょう)らを遣わし、公孫瓚に助力。ところが袁紹と戦って敗れたため、配下も離散していった。

205年、曹操(そうそう)が冀州の平定にあたっていたとき、張燕は使者を遣わして官軍への助力を申し入れ、平北将軍(へいほくしょうぐん)に任ぜられた。

張燕が軍勢をひきいて鄴(ぎょう)へ赴くと、安国亭侯(あんこくていこう)に封ぜられて500戸を賜った。

のち張燕が死去(時期は不明)すると、息子の張方が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)』には、以下のようにありました。

「張角(ちょうかく)が黄巾の乱を起こすと、黒山・白波(はくは)・黄龍(こうりょう)・左校(さこう)・牛角・五鹿(ごろく)・羝根(ていこん)・苦蝤(くしゅう)・劉石(りゅうせき)・平漢(へいかん)・司隷(しれい)・縁城(えんじょう)・羅市(らふつ)・雷公(らいこう)・浮雲(ふうん)・飛燕・白爵(はくしゃく)・楊鳳(ようほう)・于毒(うどく)らもそれぞれ蜂起し、多い者は2、3万、少ない者でも数千をひきいた」

「霊帝は彼らを討伐できなかったため、使者を遣って、楊鳳を黒山校尉(こくざんこうい)に任じた。そして諸山賊の取り締まりを命じ、孝廉(こうれん)と計吏(けいり)を推挙する権利を与えた。だが賊は一帯に広がり、数えられないほどになった」

また、本伝の裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、黒山や黄巾の頭目たちは、もともと官吏の出身ではなく、自分勝手に号やあざなを付けていたそうです。

例えば、白馬に乗っていた者を張白騎(ちょうはくき)と呼び、敏捷な者を張飛燕と呼び、声の大きな者を張雷公(ちょうらいこう)と呼び、ひげが豊かな者は于羝根(うていこん)と、目の大きな者は李大目(りたいもく)と、それぞれ自称したのだとか。

『典略』を補う形で張璠(ちょうはん)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』も引かれており、ほかにも左校(上で挙げた『九州春秋』にも出てくる)・郭大賢(かくたいけん)・左髭丈八(さしじょうはち)の3つの徒党があったとも。

黒山も黄巾も大変な規模の集団でしたが、張燕が張角のような最期を避けられたのは、状況判断がよかったからでしょうね。

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