麋芳(びほう) ※あざなは子方(しほう)

【姓名】 麋芳(びほう) 【あざな】 子方(しほう)

【原籍】 東海郡(とうかいぐん)胊県(くけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第071話で初登場。
【演義】 第018回で初登場。
【正史】 登場人物。

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南郡(なんぐん)を挙げて孫権(そんけん)に降り、兄を憤死に追いやる

父母ともに不詳。麋竺(びじく)は兄で、劉備(りゅうび)に嫁いだ妹もいた。

麋芳の家は徐州(じょしゅう)の大富豪で、麋竺ともども徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)に仕えていた。

194年、陶謙が死去すると遺命により、小沛(しょうはい)にいた劉備が徐州牧を引き継ぐ。麋芳は麋竺とともに劉備に仕えることになった。

196年、呂布(りょふ)に敗れた劉備は徐州を離れ、曹操(そうそう)を頼って許都(きょと)へ逃れる。このとき曹操の上表により、麋竺は嬴郡太守(えいぐんたいしゅ)に、麋芳は彭城国相(ほうじょうこくしょう)に、それぞれ任ぜられた。

199年、劉備が董承(とうしょう)らの曹操暗殺計画に加担し、その露見を恐れて許都を脱出。麋芳は官職を捨て、麋竺とともに劉備に付き従った。

219年、麋芳は南郡太守を務めていたが、孫権が荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)を討伐するため軍勢を進めた際、孫権配下の呂蒙(りょもう)の前に城を挙げて降伏。

このことを聞いた麋竺は、自分の身を後ろ手に縛らせて処罰を乞うたが、劉備は麋芳の罪に連座させなかったばかりか、これまで通り厚遇した。しかし麋竺は恥と憤りの気持ちが収まらず、病を得て1年余りで亡くなった。

223年、麋芳は劉邵(りゅうしょう)らとともに賀斉(がせい)の部将として魏(ぎ)の蘄春(きしゅん)を攻め、呉軍は蘄春太守の晋宗(しんそう)を生け捕りにした。

だが、その後の麋芳についての記事はない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)などによるもの。

関羽の傲慢さが麋芳を追い詰めたとは言えるでしょうけど、あまりにあっさり孫権側に内通したり、呂蒙が軍勢を進めてくるなり開城してしまったり――。麋芳には、兄の麋竺ほど劉備に対する思い入れがなかったようです。

ただ、関羽の自己中心的な荊州運営に対しては、少なくない数の重臣たちが同じような心境でいましたので、麋芳も関羽の下で荊州を固める役目に当てられた不運はあるかもしれません。

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