【姓名】 馮熙(ふうき) 【あざな】 子柔(しじゅう)
【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
孫権(そんけん)への節義を貫き通す
父母ともに不詳。馮異(ふうい。後漢〈ごかん〉の光武帝〈こうぶてい。在位25~57年〉に仕えた功臣)の子孫。
馮熙は孫権が車騎将軍(しゃきしょうぐん)だったとき、東曹掾(とうそうえん)を務めた。
★孫権が漢(かん)の車騎将軍に任ぜられたのは209年のことで、219年に驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・仮節(かせつ)に任ぜられた。さらに荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねたうえ、南昌侯(なんしょうこう)に封ぜられた。
223年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が崩ずると、立信校尉(りっしんこうい)の馮熙は孫権の命を受け、弔意を述べる使者として遣わされる。そして帰国後に中大夫(ちゅうたいふ)に任ぜられた。
その後、馮熙は魏(ぎ)に使者として遣わされたが、このとき曹丕(そうひ)は、孫権が蜀と誼(よしみ)を通じたことを非難し、巴蜀(はしょく)の地へ軍勢を進めるよう促す。
馮熙は機転を利かせ、蜀へ使者が赴いたのは答礼のためで、その折に蜀の弱点を探ってきたのだと応える。
さらに曹丕が、孫権の下には有為な人材がいないと嫌みを言うと、馮熙はきっぱりと否定し、孫権の人柄をたたえてみせた。
曹丕は不快を覚え、馮熙と同じ郡の出身である陳羣(ちんぐん)に命じ、手厚い恩賞をちらつかせて魏に仕えるよう説かせた。
しかし、馮熙があくまで誘いに乗らなかったので、曹丕は摩陂(まひ)に投獄する。
やがて馮熙は曹丕に呼び返されたが、再び魏に仕えるよう迫られれば自分の身が危ういうえ、君命をも辱めることになると考えて、道中で自害を図った。
だが、これに御者が気づいたため果たせなかった。
結局、馮熙は帰国できないまま、魏の地で亡くなった(時期は不明)という。
話を聞いた孫権は涙を流し、馮熙の態度を、蘇武(そぶ)に比肩するものとして高く評価した。
★蘇武は、前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい。在位、前140~前87年)に仕えた忠臣。匈奴(きょうど)へ遣わされた際に捕らえられたが、19年にわたって志を曲げず、昭帝(しょうてい。在位、前86~前74年)の時代にようやく帰国がかなった。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によるもの。
曹丕には、こういう一面がありますよね。使者を辱めて何がおもしろいのかと思うのですけど……。
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