劉岱(りゅうたい)B ※あざなは公山(こうざん)、劉繇(りゅうよう)の兄、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

【姓名】 劉岱(りゅうたい) 【あざな】 公山(こうざん)

【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん)

【生没】 ?~192年(?歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。

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反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、青州(せいしゅう)の黄巾軍(こうきんぐん)を迎撃した際に戦死

父は劉輿(りゅうよ。一名を劉方〈りゅうほう〉)だが、母は不詳。劉繇(りゅうよう)は弟。

劉岱は前漢(ぜんかん)の斉孝王(せいこうおう。高祖〈こうそ〉の孫の劉将閭〈りゅうしょうりょ〉。父は斉悼恵王〈せいとうけいおう〉こと劉肥〈りゅうひ〉)の後裔(こうえい)にあたる。

斉孝王の末息子(牟平共侯〈ぼうへいきょうこう〉こと劉渫〈りゅうせつ〉か?)が牟平侯に封ぜられ、その子孫が代々この地に住んだ。

189年4月、霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)し、少帝(しょうてい)が即位。8月には、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)が宦官(かんがん)に謀殺された。

同年9月、実権を握った董卓に少帝が廃され、献帝(けんてい)が即位。

董卓は、尚書(しょうしょ)の周毖(しゅうひ)や城門校尉(じょうもんこうい)の伍瓊(ごけい)を信任し、許靖(きょせい)とも協議して天下の士人の人事を扱うよう命じた。

すると彼らは汚職官吏を追放し、まだ人に知られていない人物を見いだし、昇進が遅れている者を抜てき。このとき劉岱も、侍中(じちゅう)から兗州刺史(えんしゅうしし)に起用された。

翌190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、劉岱もこの動きに呼応。

このとき袁紹(えんしょう)は河内(かだい)に、劉岱は、張邈(ちょうばく)・橋瑁(きょうぼう)・袁遺(えんい)とともに酸棗(さんそう)に、袁術(えんじゅつ)は南陽(なんよう)に、孔伷(こうちゅう)は潁川(えいせん)に、韓馥(かんふく)は鄴(ぎょう)に、それぞれ駐屯していた。

しかし諸侯の足並みはそろわず、やがて互いに猜疑(さいぎ)し合うようになる。そのうち劉岱が、仲の悪かった橋瑁を殺害して兗州へ帰ると、ほどなく連合軍は自然解散した。

この年、劉岱は程昱(ていいく)を召し寄せようとして断られた。

このとき劉岱は、袁紹と公孫瓚(こうそんさん)の両者と結んでおり、袁紹の妻子が劉岱のもとで暮らしていたり、公孫瓚配下の従事(じゅうじ)の范方(はんほう)がひきいる騎兵から助力を得たりしていた。

翌191年、袁紹と公孫瓚が仲たがいし、公孫瓚のほうから、袁紹の妻子を引き渡して手を切るよう言ってくる。劉岱は連日の議論を重ねても決心がつかず、別駕(べつが)の王彧(おういく)の進言を容れ、程昱を招いて意見を聴くことにした。

やってきた程昱が言った。

「袁紹という近き助けを捨て、公孫瓚という遠き助けをお求めになるのは、越(えつ)の国から人を借り、溺れている子を救おうという考え方です」

「そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。今は袁紹の軍勢を撃破したと言っていても、結局は捕らえられることになるでしょう。一時的な動向に釣られて将来までお考えになりませんと、将軍は失敗されますぞ」

劉岱は彼の意見に従う。こうして范方は、ひきいていた騎兵とともに帰還したが、まだ到着しないうち、公孫瓚は袁紹に大破された。

劉岱は、程昱を騎都尉(きとい)に任ずるよう上申したが、彼は病気を理由に辞退した。

翌192年、青州の黄巾軍100万が兗州に侵攻。任城国相(じんじょうこくしょう)の鄭遂(ていすい)を殺害した後、方向を転じて東平(とうへい)に侵入してくる。

同年4月、劉岱は、鮑信(ほうしん)の制止を聞かずに出撃して戦死した。

管理人「かぶらがわ」より

弟の劉繇ともども、その俊才ぶりが世に知られていたという劉岱。ですが、彼もまた名門の看板を生かすことなく埋没してしまいました。

たびたび劉岱は程昱を召し寄せましたが、うまくかわされています。

それでは程昱に出仕する気がなかったのかというと、そうではなく、劉岱の死後に兗州牧(えんしゅうぼく)として迎えられた曹操(そうそう)から招かれると、これに応じているのです。

程昱が招かれた前年(191年)には、荀彧(じゅんいく)が袁紹のもとを離れ、やはり曹操に仕える決断をしています。真の切れ者というのは、こういう判断が絶妙なのですね。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・程昱伝)にはこの件についての記事があり、「兗州に入った曹操から招かれた程昱が行こうとすると、郷里の人々は『前(劉岱の招き)と今(曹操の招き)では何と(態度が)矛盾することか』と言ったが、程昱は笑って取り合わなかった」ということでした。

劉岱の生年はわかりませんが、弟の劉繇は154年生まれです。なので、彼は153年以前の生まれということに。仮に153年生まれだったとした場合、192年に戦死したときは40歳になります。

ちなみに劉岱には、同姓同名かつあざなも同じという、もうひとりの劉岱(沛国〈はいこく〉の人)がいます。吉川『三国志』や『三国志演義』では同一人物のように見えたと思いますが、実際には劉岱がふたりいたのです。

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