劉虞(りゅうぐ) ※あざなは伯安(はくあん)

【姓名】 劉虞(りゅうぐ) 【あざな】 伯安(はくあん)

【原籍】 東海郡(とうかいぐん)郯県(たんけん)

【生没】 ?~193年(?歳)

【吉川】 第017話で初登場。
【演義】 第002回で初登場。
【正史】 登場人物。

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袁紹(えんしょう)と韓馥(かんふく)の即位要請をきっぱり拒んだ、帝族きっての名望家

父母ともに不詳。劉和(りゅうか)という息子がいた。

劉虞は後漢(ごかん)の東海恭王(とうかいきょうおう。光武帝〈こうぶてい〉の息子の劉彊〈りゅうきょう〉)の5世孫にあたり、帝族のひとりだった。

しかし当代の天子(てんし)とは遠い間柄だったので、郷里の郯県に出仕して戸曹(こそう)の役人になった。

劉虞はよく身を修めて職務に励んだため、召されて東海郡の役人に転じ、郡から孝廉(こうれん)に推挙されると、朝廷に入って郎(ろう)となった。

昇進を重ねて幽州刺史(ゆうしゅうしし)となり、やがて甘陵国相(かんりょうこくしょう)に転ずると、東方の異民族の心をしっかりつかむ。

のち病のために辞職して郷里に帰ったが、いつもへりくだって質素な生活を送り、地元の人々と苦楽をともにし、暮らし向きも同じようにしていた。

また劉虞は、地位や名声があることで自身を特別扱いしなかった。そのため郷里の人々は、みな彼を尊敬したという。

甘陵国が混乱に陥ると、官民は劉虞の治績を慕う。そこで再び劉虞が甘陵国相として起用されると、甘陵はよく治まった。

劉虞は中央に召し還されて、尚書令(しょうしょれい)や光禄勲(こうろくくん)に任ぜられたが、帝族の中でも礼儀をわきまえた人物だったため、改めて宗正(そうせい)に任ぜられた。

188年、霊帝(れいてい)が刺史を改めて牧(ぼく)を設置すると、劉虞は幽州牧に任ぜられた。

翌189年3月、劉虞は懸賞金をかけて、漁陽(ぎょよう)の賊である張純(ちょうじゅん)を捕らえ、これを斬った。

張純は187年6月、同郡の張挙(ちょうきょ)と反乱を起こし、右北平太守(ゆうほくへいたいしゅ)の劉政(りゅうせい)、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の楊終(ようしゅう)、護烏桓校尉(ごうがんこうい)の公綦稠(こうきちゅう)を攻めて殺害。

張挙は天子を僭称(せんしょう)し、幽州と冀州(きしゅう)の両州に侵攻していたものだった。

なお『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・公孫瓚伝〈こうそんさんでん〉)によると、張純は妻子を見捨てて鮮卑族(せんぴぞく)の中へ逃げ込んだが、食客の王政(おうせい)に殺害され、その首が劉虞のもとに届けられたという。

同年4月、劉虞は張純らの討伐の功により太尉(たいい)に昇進し、襄賁侯(じょうほんこう)に封ぜられる。

同年9月、董卓(とうたく)の意向により大司馬(だいしば)に昇進。この際、公孫瓚も奮武将軍(ふんぶしょうぐん)に任ぜられ、薊侯(けいこう)に封ぜられた。

翌190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵したものの、足並みがそろわず、やがて自然解散してしまう。

翌191年春、袁紹と韓馥からの即位要請を固辞。

翌192年1月、公孫瓚が、界橋(かいきょう)で袁紹と戦って大敗。

この年、たびたび公孫瓚は袁紹に敗れ、勃海(ぼっかい)へ逃走したあと薊まで戻る。公孫瓚は、薊の大城の東南に小城を造営。この小城が劉虞の居城と近かったため、双方の敵意が次第に高まった。

翌193年、公孫瓚が反乱を起こすことを恐れ、劉虞のほうから公孫瓚を攻めたものの、あっさり敗れて居庸(きょよう)へ逃走。公孫瓚に居庸を攻め落とされ、劉虞は捕虜として薊へ連行された。

このころ献帝(けんてい)は、前年に董卓が誅殺されたことを受け、段訓(だんくん)を遣わして劉虞に6州の統治を委ねようとした。このとき公孫瓚は前将軍(ぜんしょうぐん)・易侯(えきこう)に昇進した。

同年10月、公孫瓚が「劉虞は皇帝を僭称しようとしている」と誣告(ぶこく)。勅使の段訓を脅迫して、劉虞を斬刑に処した。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』には劉虞の伝が立てられていないため、その事績も断片的なものしか拾えませんでした。

一方で范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には彼の伝が立てられており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、そちらにはもう少し具体的な記事があるようです。

『三国志』における劉虞の事績は、その多くが「公孫瓚伝」に見られます。また、この「公孫瓚伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)には、劉虞にまつわる逸話がいろいろありました。

韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書(ごしょ)』には、「劉虞が病のために甘陵国相を辞職し、郷里で暮らしていたとき、裁判沙汰が起こると、みな役所ではなく劉虞のところへ行って判断を仰いだ」という話があったり。

『英雄記(えいゆうき)』には「劉虞が博平県令(はくへいけんれい)を務めていたとき(時期はわからず)、正しく公平な政治を行い、彼自身も高潔かつ質朴だったので、領内から盗賊がいなくなり、災害も起こらなくなった」という話もありました。

ただこの話の続きが、「そのころ博平の隣県では蝗(イナゴ)の被害が出ていたが、博平との県境まで来ても(蝗が)県内に飛び込んでこなかった」とあって、いくらか引っかかります。

そして孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』には、異民族への対応を巡り、劉虞と公孫瓚の考え方の違いがうかがえる記事もありました。

異民族への懐柔策を採る劉虞に対し、公孫瓚は、異民族は統御することが難しいから、服従しないことを理由に討伐すべきである。財物や恩賞を与えたりすれば、ますます漢王朝を軽視するに違いない。(劉虞の懐柔策は)一時的には功名を立てることになっても、長期的な深い思慮にふさわしい方法とは言えない、と考えていたそうです。

そのため劉虞が異民族に賜与した財物を、いつも公孫瓚が奪い取らせていたのだとか。劉虞は何度も会見を申し入れますが、公孫瓚は仮病を使って出向こうとしなかったとも。

どちらの方針が異民族対策として効果的だったのかは判断がつきませんけど、劉虞と公孫瓚の考え方はまったく違うものでした。

劉虞は帝位への野心を持たなかったという点で、数少ないタイプの人物だったと言えます。朝廷の要職に留まり、政治力を発揮できればよかったのでしょうが、どこを見ても群雄だらけの時代でしたからね……。

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