曹嘉(そうか)

【姓名】 曹嘉(そうか) 【あざな】 ?

【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹彪(そうひゅう)の息子、魏(ぎ)の常山真定王(じょうざんしんていおう)、晋(しん)の高邑公(こうゆうこう)

父は曹彪だが、母は不詳。

254年、曹嘉は251年に自殺した曹彪の跡を継ぎ、常山真定王(常山郡の真定県王)に封ぜられた。

その後、260年に加増を受けて2,500戸となった。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・楚王彪伝〈そおうひゅうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、「曹嘉は晋代に入って高邑公に封ぜられ、元康(げんこう)年間(291~299年)には石崇(せきすう)とともに国子博士(こくしはくし)を務めた」ということです。

「その後、曹嘉は東莞太守(とうかんたいしゅ)となり、石崇は征虜将軍(せいりょしょうぐん)として青州(せいしゅう)や徐州(じょしゅう)の軍事を取り仕切り、下邳(かひ)に駐屯した」ともあり、曹嘉と石崇がやり取りした詩も載せられていました。

なお曹彪は、249年に兗州刺史(えんしゅうしし)の令狐愚(れいこぐ)が太尉(たいい)の王淩(おうりょう)と共謀し、曹彪を擁立して許昌(きょしょう)に都を置こうと企てたために責任を問われ、251年に自殺に追い込まれました。

そして、3年後の254年に曹髦(そうぼう)の詔(みことのり)が下され、曹彪の跡継ぎである曹嘉が常山真定王に封ぜられています。

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