任峻(じんしゅん) ※あざなは伯達(はくたつ)

【姓名】 任峻(じんしゅん) 【あざな】 伯達(はくたつ)

【原籍】 河南郡(かなんぐん)中牟県(ちゅうぼうけん)

【生没】 ?~204年(?歳)

【吉川】 第068話で初登場。
【演義】 第014回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・任峻伝』あり。

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曹操(そうそう)の挙兵当初から後方支援に活躍、「屯田制(民屯)」の実施にも功績あり、諡号(しごう)は成侯(せいこう)

父母ともに不詳。息子の任先(じんせん)は跡継ぎで、任覧(じんらん)も同じく息子。このほかにも息子がいたことがうかがえる。妻は曹操の従妹だった。

189年、董卓(とうたく)が乱を起こして関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)も騒がしくなると、中牟県令(ちゅうぼうけんれい)の楊原(ようげん)は不安と恐怖のあまり、官を捨てて逃げようとする。

このとき任峻は現状を説き、楊原に反董卓の口火を切り、河南尹(かなんいん)を代行して付近の10県の兵をひきいるよう勧めた。

任峻は主簿(しゅぼ)となり、楊原を河南尹の代行に任じてほしいと上奏し、諸県に守備を固めるよう命じて挙兵した。

翌190年、同じく関東で挙兵した曹操が中牟の県境に入ってくると、みな誰に従うべきか判断に迷う。

だが、任峻は同郡の張奮(ちょうふん)と相談し、郡を挙げて曹操に付こうと考える。別に一族・食客・郎党ら数百人を集め、彼らともども付き従いたいと願い出た。

曹操は大いに喜び、任峻を騎都尉(きとい)とするよう上奏したうえ、従妹を娶(めあわ)せて信愛した。

これ以後、曹操が討伐に出るたびに任峻は留守を預かり、軍への補給を取り仕切る。

196年、このころ飢饉(ききん)や干害によって兵糧が不足し、羽林監(うりんかん)の棗祗(そうし)が韓浩(かんこう)とともに屯田(民屯)の設置を建言した。

これを受けて、任峻が典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)に任ぜられる。民から募って許(きょ)の県下で屯田を始めると100万石(せき)の収穫を得た。

そこで郡国に田官(でんかん)を置き、本格的に屯田の制度を普及させたところ、数年のうちに各地の倉庫は粟(アワ)でいっぱいになった。

200年の官渡(かんと)の戦いにおいても、任峻は兵糧輸送をつかさどった。軍事や政治に必要な物資が豊かになったのは、棗祗らの発議に加え、それを任峻が実現させたことによる。

曹操の上奏により、任峻は都亭侯(とていこう)に封ぜられて封邑(ほうゆう)300戸を賜り、長水校尉(ちょうすいこうい)に昇進した。

204年、任峻が死去すると、曹操はしばらく泣いていたという。息子の任先が跡を継いだものの息子がいなかったため、その死後に封邑は没収された。

後に帝位に即いた曹丕(そうひ)が、さかのぼって功臣を記録させた際、任峻に成侯の諡号を追贈する。また、彼の息子の任覧を関内侯(かんだいこう)に封じた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると任峻は寛大で、深い人情と包容力を持っており、物の道理をつかんでいたといい、彼が述べた意見には曹操も感心することが多かったということです。

飢饉の際に友人の遺児を引き取って面倒を見たり、父方や母方を問わずに一族の貧窮者を助け、その信義が大いにたたえられたのだとも。

「屯田制(民屯)」の実現は曹操の大業を経済面から支えました。

当初は袁紹(えんしょう)の軍事力や経済力に圧倒された曹操でしたが、こうした基盤の構造が、両者でまったく異なっていたのですね。

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