張猛(ちょうもう) ※あざなは叔威(しゅくい)

【姓名】 張猛(ちょうもう) 【あざな】 叔威(しゅくい)

【原籍】 弘農郡(こうのうぐん)華陰県(かいんけん)

【生没】 ?~210年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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占い師に予言されていた死

父は張奐(ちょうかん)だが、母は不詳。張芝(ちょうし)は兄で張昶(ちょうちょう)も兄弟。

もともと張奐は燉煌(とんこう)の人だったが、167年、功績によって特に弘農郡華陰県への転籍が認められた。

転籍の記事は『後漢書(ごかんじょ)』(張奐伝)によるもの。

建安(けんあん)年間(196~220年)の初め、張猛は郡の功曹(こうそう)となった。

そのころ黄河(こうが)の西にある4郡(金城〈きんじょう〉・酒泉〈しゅせん〉・燉煌・張掖〈ちょうえき〉)は涼州(りょうしゅう)の州治から遠く離れており、一帯を荒らし回る賊に悩まされたことから、上書により別の州を置いてほしいとの要請があった。

206年、献帝(けんてい)の詔(みことのり)が下り、邯鄲商(かんたんしょう)を雍州刺史(ようしゅうしし)に起用し、これら4郡の統治を委ねた。

『後漢書』(献帝紀〈けんていぎ〉)の李賢注(りけんちゅう)に引く袁宏(えんこう)の『後漢紀(ごかんき)』では、雍州を涼州(涼州刺史)に作る。

このとき武威太守(ぶいたいしゅ)が欠員になると、かつて張奐が黄河の西部で権威と名声を持っていたことから、その息子である張猛の起用が決まる。

こうして張猛は邯鄲商と一緒に西方へ向かったが、ふたりは同い年でもあり、日ごろからふざけ合うような間柄だった。

ところがふたりは、今回の道中で仲が悪くなってしまう。

任地の武威に着くと、邯鄲商は張猛を殺害しようとし、これに気づいた張猛が兵をひきいて逆襲。

邯鄲商は張猛の兵が押し寄せたと聞き、恐れて宿舎の屋根に上り、和解を呼びかける。

しかし、張猛は邯鄲商を責め立てた後、督郵(とくゆう。官名)に身柄を引き渡す。邯鄲商は宿舎に閉じ込められ、逃げ出そうとして殺された。

210年、将軍の韓遂(かんすい)が上書を行い、張猛の討伐に乗り出す。

張猛も兵を繰り出して防ごうとしたが、配下の官民は韓遂を恐れ、かえって敵に回る。張猛は死を覚悟して楼に登り、自ら火を放って死んだという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・龐淯伝〈ほういくでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によるもの。

『典略』では、邯鄲商が殺されたのが「建安14(209)年」となっており、『後漢書』(献帝紀)の記事(建安11〈206〉年のこととする)と食い違っていました。

また『典略』には、父の張奐が武威太守だったころの話もありました。

このとき母は張猛を身ごもっていたのですが、夫の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を帯び、楼に登って歌っている夢を見ます。

翌朝、妻の話を聞いた張奐が占い師に尋ねたところ、「ほどなく夫人は男子をお産みになります。(生まれた男子は)いずれこの郡に来られますが、必ず在職のままお亡くなりになるでしょう」とのことだったという。

図らずも占い師の言葉通りになったわけですね。

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