張特(ちょうとく) ※あざなは子産(しさん)

【姓名】 張特(ちょうとく) 【あざな】 子産(しさん)

【原籍】 涿郡(たくぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。

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一計を案じ、合肥新城(ごうひしんじょう)を守り切る

父母ともに不詳。

張特は牙門将軍(がもんしょうぐん)として、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん。251~252年)の諸葛誕(しょかつたん)の指揮下にあった。

だが、諸葛誕は張特を無能と見ており、帰らせて護軍(ごぐん)にしようと考えていたという。

252年、その諸葛誕が、東関(とうかん)で呉(ご)の太傅(たいふ)の諸葛恪(しょかつかく)と戦って大敗した。

これを受け、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)が諸葛誕と交代した。張特は合肥新城に留まり、引き続き守りにあたる。

翌253年、諸葛恪に合肥新城が包囲されたとき、張特は将軍の楽方(がくほう)らとともに3千の軍勢を擁していた。

しかし、そのうちの半数以上が戦死したり病に倒れてしまい、呉軍の攻撃で城は陥落寸前まで追い込まれる。

そこで張特は城外へ出て呉軍に告げた。

「もう私たちには戦う気がございません」

「魏(ぎ)の定めでは、敵の攻撃を受けて100日が過ぎても援軍が来ない場合、投降しても国元の家族は連座しないことになっております。私たちが攻撃を受けてから、もう90日以上になります」

「初めは城内に4千を超える兵がおりましたが、すでに半数以上は戦死しました。ですが、このまま城が陥落したとしても、まだ投降を望まぬ者がおります」

「私は立ち戻って彼らと話し合い、従う者と従わない者とに分けて名簿を作り、明朝早くにお届けしましょう。証拠として私の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を預かってください」

そして自分の印綬を渡そうとしたが、呉軍のほうでは張特を信じて受け取らず、城への攻撃もいったん中止した。

張特は城へ戻ると、夜のうちに家屋を壊して柵に利用し、城壁の欠けた箇所を補修して二重にした。

翌日、張特は再び呉軍に告げる。

「私には、ただ闘死あるのみだ!」

呉軍は激怒して攻撃を再開したものの城を陥すことはできず、やがて(疫病の流行もあって)引き揚げた。

朝廷は張特の働きを評価し、雑号将軍(ざつごうしょうぐん)の称号を加えたうえ列侯(れっこう)に封じ、安豊太守(あんぽうたいしゅ)に任じた。その後の張特については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

諸葛誕は張特の実力を見誤ったようです。もし合肥新城が陥ちていれば、その後の諸葛恪の運命も変わっていたのでしょうか?

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