韓嵩(かんすう) ※あざなは徳高(とくこう)

【姓名】 韓嵩(かんすう) 【あざな】 徳高(とくこう)

【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第092話で初登場。
【演義】 第023回で初登場。
【正史】 登場人物。

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もはや日和見は許されず、劉表(りゅうひょう)に曹操(そうそう)への帰順を進言したひとり

父母ともに不詳。

韓嵩は若いころから学問を好み、貧しいながらも初志を変えなかった。三公の招きに応じず、数人の同士とともに酈(れき)の西にある山に隠れ住んだ。

184年、韓嵩は黄巾(こうきん)の乱が勃発すると南方へ避難し、荊州刺史(けいしゅうしし。190年に就任)の劉表に迫られて別駕(べつが)となり、後に従事中郎(じゅうじちゅうろう)に転ずる。

劉表が郊外で(天子〈てんし〉にのみ許される)天地を祭る儀式を執り行った際、韓嵩は諫めたが聞き入れられず、次第に反感を持たれるようになったという。

199年、曹操と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で対峙(たいじ)すると、袁紹は劉表に救援を求める使者を遣わす。

劉表はこの要請を承諾しながらも進発せず、逆に曹操への支援もせず、荊州を保ったまま天下の形勢の変化を傍観しようとした。

韓嵩や別駕の劉先(りゅうせん)は、現状で中立の立場を取り続けることは不可能だとみて、曹操への帰順を勧める。

重臣の蒯越(かいえつ)も同様に勧めたものの、劉表は迷って決心がつかない。結局、韓嵩が許(きょ)に赴き、曹操の実情を探ってくることになった。

このとき韓嵩は献帝(けんてい)から侍中(じちゅう)に任ぜられ、さらに零陵太守(れいりょうたいしゅ)に昇進して荊州へ戻り、曹操の威徳について報告。そのうえ劉表に、ご子息を人質として送られたほうがよいとまで勧める。

これを聞いた劉表はひどく腹を立て、韓嵩や許に派遣した者たちを処刑しようとした。

だが、劉表の妻の蔡氏(さいし)が執り成したため、韓嵩は拘禁されるにとどまり処刑を免れた。

208年7月、曹操が軍勢をひきいて南下を開始し、荊州の攻略に乗り出す。

同年8月、劉表が病死。長男の劉琦(りゅうき)を差し置き、次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継ぐ。

韓嵩は蒯越や東曹掾(とうそうえん)の傅巽(ふそん)とともに、再び曹操への帰順を進言する。劉琮は初め渋ったものの、ほどなく彼らの意見に従う。

曹操に帰順した後、韓嵩は大鴻臚(だいこうろ)に任ぜられる。このとき彼は病床にあったため自宅で印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を受けた。

その後の韓嵩については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・劉表伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』および『先賢行状(せんけんぎょうじょう)』によるものです。

劉表は外目には温厚な学者に見えたものの、内心は猜疑(さいぎ)する気持ちが強かったと言いますが、韓嵩も危うく処刑されそうになっていました。

劉表ならまだしも、劉琦や劉琮の資質を考えれば、韓嵩らが曹操への帰順を進言したのは妥当でしょう。もし袁紹に付くよう勧めたのなら、まったく話は違ってきますが――。

韓嵩の生没年はわかりませんが、曹操に帰順した後、ほどなく亡くなったと思わせる書かれ方でした。

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