鄧艾(とうがい)

【姓名】 鄧艾(とうがい) 【あざな】 士載(しさい)

【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)棘陽県(きょくようけん)

【生没】 ?~264年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鄧艾伝』あり。

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電撃作戦をもって蜀(しょく)の平定で大功を立てるも、讒言(ざんげん)を受けて死す

父母ともに不詳。鄧忠という息子がおり、このほかにも息子がいたことがうかがえる。

鄧艾は幼いころに父を亡くし、208年に曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を討伐した際、汝南(じょなん)へ移住。その地で農民となり、子牛を育てて暮らす。

12歳の時、母に付いて潁川(えいせん)へ行き、もと太丘県長(たいきゅうけんちょう)の陳寔(ちんしょく)に関する碑文を見る。その碑文には「文は世の範(はん)たり、行いは士の則(のり)たり」とあった。

そこで鄧艾は名を範、あざなを士則(しそく)と称することにしたが、のち一族に同じ名を付けた者が出たので艾と改名した。

やがて都尉学士(といがくし)となるも、吃音(きつおん)のため幹佐(かんさ)には昇進できず、稲田守叢草吏(とうでんしゅそうそうり)に転ずる。同僚の父親が鄧艾の貧しさを見かねて手厚く援助したものの、彼は礼を言うことがなかった。

また高い山や広い沼地を見ると、いつも彼は軍営を置くにふさわしい場所を測量したり、図に描いて示したりしたが、そうした様子を見て嘲笑する者が多かったという。

のち鄧艾は典農綱紀(てんのうこうき)・上計吏(じょうけいり)として都へ上り、太尉(たいい。235~239年)の司馬懿(しばい)に会う。司馬懿は彼を高く評価して太尉掾(たいいのえん)に任じ、尚書郎(しょうしょろう)に昇進させた。

このころ田地を広げ穀物を蓄え、それを基礎として蜀や呉(ご)を滅ぼすという計画が立てられる。

鄧艾は陳(ちん)や項(こう)以東の寿春(じゅしゅん)に至るまでの地域を視察し、運河を通すことを思い立つ。こうした趣旨について「済河論(せいがろん)」を著して説明した。

さらに、許昌(きょしょう)一帯の田地を廃して用水を東へ流し、淮水(わいすい)の南北で軍屯を行うよう進言。司馬懿は彼の意見を嘉(よみ)し、すべて実施に移す。

241年、運河が開通。これによって東南地域へ大軍を派遣する際に船が使えるようになり、淮水や長江(ちょうこう)への迅速な到着が可能となった。淮水沿岸に食糧の備蓄ができ、水害もなくなったことは鄧艾の献策のおかげだった。

鄧艾は地方へ出て参征西軍事(さんせいせいぐんじ)となり、南安太守(なんあんのたいしゅ)に昇進。

249年、鄧艾は征西将軍(せいせいしょうぐん)の郭淮(かくわい)とともに、蜀の姜維(きょうい)の侵攻を防ぐ。

蜀軍が引くと、そのまま郭淮は西方の羌族(きょうぞく)を攻めようとする。鄧艾は蜀軍が引き返してくる可能性を指摘し、白水(はくすい)の北にとどまることになった。

それから3日後、姜維は廖化(りょうか)を遣り、白水の南に陣を築かせる。鄧艾は、こちらが少数なのに敵が渡河して攻め寄せないことから、姜維の狙いが洮城(とうじょう)にあると見抜く。その夜、ひそかに軍を動かし、60里(り)離れた洮城へ向かった。

姜維は白水を渡り洮城を攻めたものの、先に鄧艾が着いて立てこもったため、魏は敗北を免れる。鄧艾は功により関内侯(かんだいこう)に封ぜられ討寇将軍(とうこうしょうぐん)の官位を加えられた。のち城陽太守(じょうようのたいしゅ)に転任。

このころ匈奴(きょうど)の右賢王(ゆうけんおう)の劉豹(りゅうほう)が部族民を併せて幷州(へいしゅう)にいた。鄧艾は劉豹の部族で反乱が起こったと聞くと上奏文を奉る。

そして、かつて(216年に)顕著な功を上げた去卑(きょひ)の息子に高位の称号を与えて雁門(がんもん)に住まわせ、劉豹と匈奴の勢力を二分させるよう勧めた。

『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)によると、216年7月、匈奴の南単于(なんぜんう。王)の呼廚泉(こちゅうせん)が配下の名王(めいおう。諸部族の有力者)を引き連れて来朝。このとき曹操は賓客の礼をもって魏に引き留め、右賢王の去卑に国元を取り仕切らせたという。

また鄧艾は別に上奏を行い、魏の民と雑居している羌族を少しずつ故郷へ帰し、教化を施すことも勧める。大将軍(だいしょうぐん。252~255年)の司馬師(しばし)は政治を補佐して間もなかったが、彼の意見をほぼ採用した。

鄧艾は汝南太守に転任すると、むかし援助してくれた同僚の父親を捜したが、ずっと前に亡くなっていた。そこで下役を遣って祭らせ、同僚の母親に手厚い贈り物をし、同僚だった男を計吏に推挙した。鄧艾は各任地で荒野を開墾させたため、軍民ともに豊かになったという。

253年、合肥新城(ごうひしんじょう)が呉の諸葛恪(しょかつかく)に包囲されたが、やがて敵は引いた。鄧艾は兗州刺史(えんしゅうのしし)に昇進し振威将軍(しんいしょうぐん)の官位を加えられる。

翌254年、曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐと、鄧艾は方城亭侯(ほうじょうていこう)に爵位が進む。

翌255年、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が淮南で反乱を起こす。鄧艾は彼らが急送した文書を受け取ったものの、その使者を斬る。こうして通常の倍の速さで進軍し、先に楽嘉城(らくかじょう)へ入り浮橋を作った。

司馬師が大軍をひきいて到着すると、そのまま楽嘉を根拠地とした。文欽は遅れて楽嘉にやってきて敗れたが、鄧艾は丘頭(きゅうとう)まで追撃。結局、文欽は呉へ逃亡する。

呉の大将軍の孫峻(そんしゅん)らが10万と号する軍勢をひきい、長江を渡る動きを見せると、鄧艾は鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の諸葛誕(しょかつたん)の命を受け、肥陽(ひよう)に駐屯。

だが、この地が敵軍から遠く、要害でもないと判断し、すぐさま附亭(ふてい)に移動した。ここで泰山太守(たいざんたいしゅ)の諸葛緒(しょかつしょ)らを黎漿(れいしょう)へ遣って抵抗させ、敵軍を逃走させた。

この年、鄧艾は召し還されて長水校尉(ちょうすいこうい)に任ぜられる。さらに、先の文欽撃破の功により方城郷侯(ほうじょうきょうこう)に爵位が進み行安西将軍(こうあんぜいしょうぐん)に昇進。

またこの年、雍州刺史(ようしゅうしし)の王経(おうけい)が洮水で蜀の姜維に大敗し、狄道(てきどう)で包囲された。鄧艾は征西将軍の陳泰(ちんたい)らとともに蜀軍を退け、姜維は引き揚げて鍾提(しょうてい)に駐屯した。鄧艾は安西将軍・仮節(かせつ)・領護東羌校尉(りょうごとうきょうこうい)となる。

魏の多くの論者は、姜維が再び出撃してくることはないと述べたが、鄧艾は反論し、狄道・隴西(ろうせい)・南安・祁山(きざん)の守りを固めた。

翌256年、姜維は祁山に向かうが、鄧艾の備えを聞くと方向を変え、董亭(とうてい)を経て南安へ進もうとした。鄧艾は武城山(ぶじょうざん)に立てこもり蜀軍と対峙(たいじ)する。

姜維は要害を占められず、夜間に渭水(いすい)を渡って東進し、山沿いに上邽(じょうけい)へ向かう。

同年8月、鄧艾は段谷(だんこく)で姜維と戦い大破した。詔(みことのり)によってたたえられ鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)・都督隴右諸軍事(ととくろうゆうしょぐんじ)に昇進。鄧侯(とうこう)に爵位が進み、封邑(ほうゆう)から500戸を分ける形で息子の鄧忠も亭侯(恵唐亭侯〈けいとうていこう〉?)に封ぜられる。

翌257年、蜀の姜維軍を長城(ちょうじょう)で防ぐ。鄧艾は征西将軍に昇進し、前後にわたる加増を受けて封邑は6,600戸となった。

262年、鄧艾は蜀の姜維軍を侯和(こうか)で撃破。姜維は引いて沓中(とうちゅう)に立てこもる。

翌263年秋、曹奐(そうかん)が蜀討伐の詔を下す。大将軍の司馬昭(しばしょう)が総指揮を執り、鄧艾も命を受け姜維と全面的に対峙する。一方で、雍州刺史の諸葛緒が姜維の退路を断つ役目を担った。

鄧艾は天水太守(てんすいたいしゅ)の王頎(おうき)らに姜維の軍営を攻めさせ、その手前に隴西太守の牽弘(けんこう)らを配置。別に金城太守(きんじょうたいしゅ)の楊欣(ようきん)らを甘松(かんしょう)へ向かわせる。

姜維は、魏の鍾会(しょうかい)配下の諸軍が漢中(かんちゅう)に侵入したことを聞くと、引き揚げて帰ろうとした。楊欣らは彊川口(きょうせんこう)まで追撃して大いに戦い、姜維を敗走させた。姜維は諸葛緒の屯営をかわし、東へ逃れ剣閣(けんかく)に立てこもる。

同年10月、鄧艾は陰平(いんぺい)から700余里も難路を進み、苦労の末に江由(こうゆう)へ出ることに成功。急襲を受けた蜀の守将の馬邈(ばばく)は降伏した。

これを受け、蜀の衛将軍(えいしょうぐん)の諸葛瞻(しょかつせん)が涪(ふう)から緜竹(めんちく)へ引き返し、陣を連ねて鄧艾を待ち受ける。鄧艾は息子の鄧忠に敵の右陣を、司馬の師纂(しさん)に敵の左陣を、それぞれ攻撃させた。

ところがふたりとも敗れて逃げ戻ったため、鄧艾は斬罪に処そうとする。ふたりは再び戦場へ向かい、ついに諸葛瞻や張遵(ちょうじゅん)らの首を斬った。

さらに鄧艾が雒(らく)まで進軍すると、蜀の劉禅(りゅうぜん)から降伏を願い出る文書に加え、玉璽(ぎょくじ)と綬(じゅ)が届けられる。

同年11月、成都(せいと)へ入城すると、鄧艾は専断権を発動。劉禅を行驃騎将軍(こうひょうきしょうぐん)に、皇太子(こうたいし)の劉璿(りゅうせん)を奉車都尉(ほうしゃとい)に、それぞれ任じ、ほかの諸王(劉禅の息子たち)を駙馬都尉(ふばとい)に任じた。

蜀の官僚らも官位の高下に従い魏の官職を授けられたり、鄧艾の属官に取り立てられたりした。また、師纂に益州刺史(えきしゅうのしし)を兼ねさせ、牽弘らにも蜀の諸郡の太守を兼ねさせた。

同年12月、詔によりたたえられ、鄧艾は太尉に任ぜられたうえ2万戸の加増を受ける。息子ふたりが亭侯に封ぜられ、1千戸ずつの封邑を賜った。

しかし鄧艾が、司馬昭が監軍(かんぐん)の衛瓘(えいかん)を通じて戒めたにもかかわらず、このまま呉も討伐すべきだとの主張を続けたところ、鍾会・胡烈(これつ)・師纂らは、鄧艾の行いが反逆にあたると上言する。

翌264年1月、これを受け詔が下されると、鄧艾父子は捕らえられ、囚人護送車で洛陽(らくよう)へ送られることになった。

ふたりが捕らえられた後、今度は鍾会が成都に入ったものの、彼は鄧艾を送り出してから反乱を起こし、ほどなく討たれた。鄧艾の配下だった将兵は護送車を追いかけ、鄧艾を救い出す。

それでも衛瓘が田続(でんしょく)らに鄧艾の討伐を命ずると、鄧艾は緜竹の西において斬られ、息子の鄧忠とともに死んだ。洛陽にいた彼の息子たちもみな処刑され、妻と孫は西域(せいいき)へ流されたという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、晋代(しんだい)に入った267年、議郎(ぎろう)の段灼(だんしゃく)が鄧艾を弁護する上奏を行います。そして273年に司馬炎(しばえん)の詔が下り、鄧艾の孫の鄧朗(とうろう)が郎中(ろうちゅう)に取り立てられたということでした。

大功を立てたがために、言いがかりをつけられる形で死ぬ羽目になった鄧艾。彼が助かる道はあったのでしょうか?

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魏の重臣 人物データ
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