王観(おうかん) ※あざなは偉台(いだい)

【姓名】 王観(おうかん) 【あざな】 偉台(いだい)

【原籍】 東郡(とうぐん)廩丘県(りんきゅうけん)

【生没】 ?~260年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王観伝』あり。

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最晩年に司空(しくう)に昇るも数日で辞職、諡号(しごう)は粛侯(しゅくこう)

父母ともに不詳。息子の王悝(おうかい)は跡継ぎ。

王観は若くして父を亡くしたため貧しかったが、心を奮い立たせてくじけなかった。やがて曹操(そうそう)に召され、丞相文学掾(じょうしょうぶんがくえん)となる。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

後に地方へ出て高唐(こうとう)・陽泉(ようせん)・酇(さん)・任(じん)の県令(けんれい)を歴任し、各地で治績をたたえられた。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、王観は中央へ戻って尚書郎(しょうしょろう)や廷尉監(ていいかん)を務め、また地方へ出て南陽太守(なんようたいしゅ)や涿郡太守(たくぐんたいしゅ)を務める。

涿郡は北方の鮮卑(せんぴ)と境を接しており、しばしば侵奪の被害を受けた。そこで王観は、国境地帯の住民を10軒以上まとまって暮らすようにさせ、高い物見台を築かせる。

だが、このやり方を好まない者もいたので、役人に休暇をやり、家に帰して子弟を助けさせた。

その際に期限を決めず、家の仕事が終わった者から戻ってくるよう命じたところ、官民は督励せずとも努力するようになった。こうして守備の態勢が整うと、鮮卑の略奪行為もやんだ。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと郡県に詔(みことのり)を下し、それぞれの状況を「劇(厳しい)」「中(普通)」「平(治まっている)」の3段階で報告させる。

涿郡の担当官吏は「中」か「平」と報告するつもりだったが、王観はきっとなって言う。

「わが郡は外敵と接し、たびたび被害を受けている。なぜ『劇』としないのだ」

しかし担当官吏は、もし「劇」と報告すれば、(裏切りを防ぐ目的で)あなたさまに質子(ちし)を差し出せとの命が下る恐れがあると応ずる。

それでも王観は言った。

「いま郡が外部との関係から『劇』に相当すれば、民に課す役務を軽くしてもらえるだろう。太守の個人的な利益のために、郡民を裏切ってもよいのか?」

結局、涿郡は外部との関係で「劇」に相当すると報告し、王観は質子として、幼弱のひとり息子を鄴(ぎょう)へ送ることになった。

王観は清潔かつ質素。よくわが身を修め、部下に対してもつつましい態度で臨んだので、みな影響を受けて務めに励んだという。

曹叡が許昌(きょしょう)に行幸した際、王観は召されて治書侍御史(ちしょじぎょし)に任ぜられ、高官(6品以上)の裁判を担当する。

このころ一時的な感情で事件を起こす者が多かったが、王観は権力者におもねったり、その内意に従ったりしなかった。

王観は太尉(たいい。235~239年)の司馬懿(しばい)の推薦により従事中郎(じゅうじちゅうろう)となり、そのうち尚書に昇進する。

後に地方へ出て河南尹(かなんいん)を務め、少府(しょうふ)に転じた。

大将軍(だいしょうぐん)の曹爽(そうそう)が材官校尉(ざいかんこうい)の張達(ちょうたつ)に命じ、人家の屋材を切り取ったり私物を奪ったりしていた。

王観は情報を得ると、目録を作ってすべて没収する

材官校尉は天下の材木をつかさどり、少府府(少府の役所)に属した。

少府は3つの尚方(しょうほう。天子〈てんし〉の刀剣や器具を製作する役所。中尚方・左尚方・右尚方がある)に加え、御府(ぎょふ。宮中で使用する衣服などを製作する役所)や内蔵にある宝物も管理していた。

曹爽らは気ままに贅沢(ぜいたく)をし、多くの品物を要求したが、王観が法に厳しいことを憚(はばか)り太僕(たいぼく)に転任させた。

249年、司馬懿のクーデター(正始〈せいし〉の政変)で曹爽が処刑されると、王観は行中領軍(こうちゅうりょうぐん)として曹羲(そうぎ。曹爽の弟)の軍営を押さえる。

関内侯(かんだいこう)に封ぜられた後、王観は再び尚書となり、駙馬都尉(ふばとい)の官位を加えられた。

254年、曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐと、中郷亭侯(ちゅうきょうていこう)に爵位が進む。

しばらくして光禄大夫(こうろくたいふ)の官位を加えられ、尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)に転ずる。

260年6月、曹奐(そうかん)が帝位を継ぐと、陽郷侯(ようきょうこう)に爵位が進む。1千戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は2,500戸となった。

さらに、同月のうちに司空に昇進。王観は固辞するも許されず、勅使が遣わされて私邸で任命を受ける。

しかし王観は、就任から数日で印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を返上して帰郷した。

同年10月、王観は郷里の自宅で死去し、粛侯と諡(おくりな)された。死に臨んでは簡素な埋葬を希望したといい、息子の王悝が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

国家や民衆の利益を、常に自分の利益より優先して考えた王観。

司空をわずか数日で辞職するという極端な行動も見せましたが、貧しいところから2,500戸の封邑を得るまでの飛躍は立派なもの。

幼いうちから質子となった息子の王悝も苦労したのでしょうが、無事に爵位を継ぐことができてよかったですね。

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