賈洪(かこう) ※あざなは叔業(しゅくぎょう)

【姓名】 賈洪(かこう) 【あざな】 叔業(しゅくぎょう)

【原籍】 京兆郡(けいちょうぐん)新豊県(しんぽうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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高い学識を備えるも、馬超(ばちょう)に書かされた宣伝文が足枷(あしかせ)に……

父母ともに不詳。

賈洪は学問を好み才能もあったため、特に『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』に精通した。建安(けんあん)年間(196~220年)の初めに郡の計掾(けいえん)となり、州の招聘(しょうへい)に応じた。

このころ州には参軍事(さんぐんじ)以下100余人がいたものの、賈洪と馮翊(ひょうよく)の厳苞(げんほう)の学識や才能が最も優れていたという。

後に賈洪は3県の県令(けんれい)を歴任したが、いずれの任地でも厩舎(きゅうしゃ)を改造して学舎とし、自ら学生に教えた。

211年、馬超が反乱を起こすと、賈洪は脅されて華陰(かいん)へ出向き、彼のために宣伝文を書く。司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)は東にいたが、この文を見るなり賈洪の作だと見抜いたという。

馬超が敗れた後、賈洪は曹操(そうそう)に召されて丞相軍謀掾(じょうしょうぐんぼうえん)となる。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

だが、以前に馬超の宣伝文を書いていたことから、すぐには活躍できず、晩年になって地方へ出て陰泉県長(いんせんけんちょう)となった。

そして延康(えんこう)年間(220年)、白馬王(はくばおう)の曹彪(そうひゅう)の相(しょう)に転ずる。

曹彪が白馬王だったのは226~232年。実際のところ、220年の時点では寿春侯(じゅしゅんこう)だった。

曹彪も学問を好んだため賈洪は師と仰がれ、三卿(さんけい。藩国の3人の大臣)以上に大事にされた。

数年後、賈洪は50余歳で病死したが、当時の人々は彼の官位が二千石(せき)まで昇らなかったことを残念がったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王朗伝〈おうろうでん〉)に付された「孫叔然伝(そんしゅくぜんでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。

そこでは、初平(しょへい)年間(190~193年)から建安年間の国家の乱れぶり、中でも学問の荒廃が最もひどかったことも指摘されていました。

黄初(こうしょ)元(220)年に曹丕(そうひ)が帝位に即くと再び太学(たいがく)を開き、数百人の学生が集まったそうです。

ところが、曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)から青龍(せいりょう)年間(233~237年)には内外の事件が多く、役務を逃れようとして学問に興味のない者まで太学に入りたがり、学生は4ケタの数に上ったのだとか。

さらに博士(はくし)もみな粗雑で、実際に教えるほどの能力はなく、学生も役務を逃れるのが目的なのでまじめに学ぼうとしない。

優秀な学生がいても、朝廷は合格水準を非常に高く設定したうえ経典(けいてん)の本義を問わず、文字の意味や書法、句読や注釈などを問うたといい、100人が試験を受けても合格水準に達する者は10人に満たなかったのだと。

また、当時の官吏も数ばかり多く、ほとんど議論に加われる者がおらず、政堂にいる公卿(こうけい)以下400余人の中にも、まともに筆を執れる者は10人といなかったとも。

これは想像を超えた荒れっぷりで、賈洪らが儒宗とたたえられるのも当然か……。

なお、『魏略』の中で儒宗として名が挙げられているのは、董遇(とうぐう)・賈洪・邯鄲淳(かんたんじゅん)・薛夏(せつか)・隗禧(かいき)・蘇林(そりん)・楽詳(がくしょう)の7人です。

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