厳畯(げんしゅん) ※あざなは曼才(まんさい)

【姓名】 厳畯(げんしゅん) 【あざな】 曼才(まんさい)

【原籍】 彭城国(ほうじょうこく)

【生没】 ?~?年(78歳)

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・厳畯伝』あり。

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己の能力をわきまえて、陸口(りくこう)鎮守の大任を固辞する

父母ともに不詳。厳凱(げんかい)と厳爽(げんそう)という息子がいた。

厳畯は若いころから学問に打ち込み、『詩経(しきょう)』『書経(しょきょう)』「三礼(さんらい)」に精通し、『説文解字(せつもんかいじ)』を好んだ。

三礼は『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』のこと。

やがて世の混乱を避けて江東(こうとう)へ移り、諸葛瑾(しょかつきん)や歩騭(ほしつ)と並ぶ名声を得たが、彼ら3人は親しい友人ともなる。

厳畯は真っすぐな性格で思いやりがあり、見どころのある者に助言を与えて導き、さらに才能を伸ばせるように力を貸した。

そのうち厳畯は張昭(ちょうしょう)の推挙を受け、孫権(そんけん)から騎都尉(きとい)・従事中郎(じゅうじちゅうろう)に任ぜられた。

217年、横江将軍(おうこうしょうぐん)の魯粛(ろしゅく)が死去すると、孫権は厳畯を後任に充て、1万の兵を授けて陸口を守らせようとする。

だが、厳畯は涙ながらに固辞し続け、ついに孫権も諦めて呂蒙(りょもう)を起用。人々は、厳畯が自身の能力をわきまえて固辞した態度をたたえたという。

229年、孫権が帝位に即くと、厳畯は衛尉(えいい)として蜀(しょく)へ遣わされる。この際、蜀の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)から高い評価を受けた。

厳畯と旧知の仲である劉穎(りゅうえい)は、街の片隅に引き籠もって学問に励んでおり、評判を聞いた孫権から召されても、病気を理由に応じなかった。

ところが、弟で零陵太守(れいりょうたいしゅ)の劉略(りゅうりゃく)が死去(時期は不明)すると、劉穎は葬儀に参列した。

そのため孫権は、劉穎が仮病を使って出仕を断ったことに気づき、早馬を立てて収監しようとする。

この話を聴いた厳畯は、劉穎のもとに駆けつけて状況を説いたうえ、戻ってから孫権に劉穎の助命を乞うた。

おかげで劉穎は罪を免れたが、孫権の怒りを買った厳畯は免職となる。

しばらくして厳畯は復帰を許され、尚書令(しょうしょれい)に任ぜられたものの、後に78歳で死去(時期は不明)した。

なお、厳畯には『孝経伝(こうきょうでん)』や「潮水論(ちょうすいろん)」といった著作がある。

このほかに、裴玄(はいげん)や張承(ちょうしょう)と行った、管仲(かんちゅう)や季路(きろ。孔子〈こうし〉の弟子)についての議論も広く世に伝わったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、厳畯は俸禄や下賜された品々をため込まず、みな親戚や知人らに分け与えてしまったため、いつも自分の家は貧しかったということです。

また、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』によると、孫権は厳畯が馬に乗れるか試したことがあったといい、彼は馬の背に上りはしたものの、鞍(くら)から滑り落ちてしまったのだとか――。

学者なら馬に乗れなくても問題ないのでしょうけど、この様子だと、確かに陸口の司令官は難しそうですね。

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