吉川『三国志』の考察 第135話「呉の情熱(ごのじょうねつ)」

諸葛亮(しょかつりょう)の出廬(しゅつろ)からさかのぼること6年(建安〈けんあん〉7〈202〉年)、許都(きょと)の曹操(そうそう)の使者が着き、孫権(そんけん)に長子を上洛させるよう迫った。

対応を決めかねた孫権は母の呉氏(ごし)の助言に従い、呉城(ごじょう)に重臣たちを呼び集めて意見を聴く。激しい討論の末、孫権が下した決断は――。

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第135話の展開とポイント

(01)呉城

建安7(202)年ごろ、すなわち諸葛亮の出廬よりさかのぼること6年前、一隻の官船が揚子江(ようすこう。長江〈ちょうこう〉)を下ってくる。中央からの使者だった。

この前のところで孫権の若さに触れた記述があった。そこでは彼が曹操より28歳も年下で、劉備(りゅうび)と比べても22歳も若いと言っていた。3人はそれぞれ、孫権が光和(こうわ)5(182)年、曹操が永寿(えいじゅ)元(155)年、劉備が延熹(えんき)4(161)年生まれである。

年の数え方にもよるが、孫権が生まれた年(数え年で1歳)に曹操は28歳、劉備は22歳だったはず。こう考えた場合、ここで言われている年齢差はひとつずつ縮まる。

使者の一行は呉会(ごかい)の賓館に入ったあと登城し、曹操の旨を伝える。

『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「(呉会は)地名。両説あって、呉郡すなわち今の蘇州(そしゅう)を指すという説(『通鑑〈つがん〉』巻65、建安12年条、胡三省〈こさんせい〉の注)と、呉郡と会稽郡(かいけいぐん)の二郡を指すとの説(清〈しん〉の銭大昕〈せんたいきん〉の説、『通鑑注弁正』に見える)」があるという。また「ここ(『三国志演義』〈第29回〉)は前の説によって解すべきである」ともいう。

まだ幼少の孫権の長男(孫登〈そんとう〉)を、都(許都)へ召したいというのだった。

ここでは孫権の長男とだけあり、孫登のことだと断定できないが……。史実の孫登は建安14(209)年生まれ。なのでこの時点では生まれておらず、ちょっと納得のいかない話になっている。

人質を求めていることは明らかだったが、孫権は恭しく恩命を謝し、「いずれ一門で評議のうえ改めて」と答え、問題の延引策を採っていた。

だが、その後もたびたび長子を上洛させよと、曹操から催促が来る。朝廷を擁しているだけに、その命は彼の命にとどまらない絶対権を帯びていた。

ついに孫権が母の呉夫人に相談すると、なぜこのようなときこそ諸方の臣を招き、衆知に聴いてみないのかと言われる。

そこで呉会の賓館に大会議が開かれた。当時の呉下の知能はほとんど一堂に集まったと言っていい。

張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)・周瑜(しゅうゆ)・魯粛(ろしゅく)などの宿将をはじめとして、彭城(ほうじょう)の曼才(まんさい)、会稽の徳潤(とくじゅん)、沛県(はいけん)の敬文(けいぶん)、汝南(じょなん)の徳枢(とくすう)、呉郡の休穆(きゅうぼく)、また(同じく呉郡の)公紀(こうき)、烏程(うてい)の孔休(こうきゅう)など。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(ここで名の挙がった)順に厳畯(げんしゅん)、闞沢(かんたく)、薛綜(せつそう)、程秉(ていへい)、朱桓(しゅかん)、陸績(りくせき)、吾粲(ごさん)のあざな」という。これをまとめると、厳畯曼才、闞沢徳潤、薛綜敬文、程秉徳枢、朱桓休穆、陸績公紀、吾粲孔休の順となる。

吉川『三国志』では、初登場時に姓名ではなくあざなを用いる場合がある。後から姓名でも登場する人物が多く、気をつけていないと別人のように見えてしまう。なお、吉川『三国志』の孔休は(姓名の)吾粲としての登場がない。

かの水鏡先生(すいきょうせんせい。司馬徽〈しばき〉)が諸葛亮と並び称し、伏龍(ふくりゅう)、鳳雛(ほうすう)と言ったうちの鳳雛こと、襄陽(じょうよう)の龐統(ほうとう)も見えている。

そのほか汝陽(じょよう)の呂蒙(りょもう)、呉郡の陸遜(りくそん)、瑯琊(ろうや。琅邪)の徐盛(じょせい)など、実に人材雲のごとしで、呉の盛んなこともゆえなきではないと思わせた。

ここで汝陽の呂蒙としていたが、彼は汝南郡富陂県(ふひけん)の出身。『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第38回)では汝南の呂蒙とあった。

孫権は曹操の要求に応ずるべきか否か、忌憚(きたん)なき意見を求める。すると会議は二派に分かれ、その討論は果てしなくみえたが、ここで周瑜が初めて発言を求めた。

ここで周瑜が「(孫権の母である)呉夫人の妹の子で、先主の孫策(そんさく)と同い年だった」とあった。孫策と周瑜はともに熹平(きへい)4(175)年生まれなので、同い年というのは史実と合う。ただ、周瑜の母が呉夫人の妹だったというのは、何を典拠にした設定なのかわからなかった。

周瑜は、質子(ちし)を送れば属領を承認するも同じだと述べ、ここはあくまで無言を守り、曹操の動きを見ている秋(とき)ではないかと主張する。

こうして意見は完全な一致を見、この問題は呉の黙殺によりそのままになってしまう。以来、曹操も使者を送らず、両者は無言の国交断絶状態に入った。

(02)江夏(こうか)

建安8(203)年11月ごろ、孫権は江夏の劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)を攻めた。この戦では、初めの江上戦で孫権軍が絶対的な優勢を示す。

ところが将士たちが敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから大敗を招く。最も大きな痛手は、凌操(りょうそう。淩操)という剛勇な将軍が深入りして敵に囲まれ、黄祖麾下(きか)の甘寧(かんねい)の矢に当たり戦死したことだった。

士気を阻喪した孫権軍は壊走を余儀なくされたが、このときひとりの若者が万丈の気を吐く。凌操の子の凌統(りょうとう。淩統)で、まだ15歳だった。

凌統は父が乱軍の中で射倒されたと聞くや、一騎で敵中へ取って返し、その屍(しかばね)を尋ね、馳(は)せ帰ってきたのだ。

孫権はいち早く、この戦は不利と見たので思い切りよく本国へ引き揚げたが、弱冠の凌統の名は一躍、味方の内に知れ渡った。

(03)丹陽(たんよう。丹楊)

翌建安9(204)年の冬、孫権の弟の孫翊(そんよく)が丹陽太守(たんようたいしゅ。丹楊太守)として任地へ赴く。

彼はまだ若いうえ、性格が短気で激烈だった。おまけに大酒家で、普段から何か気に入らないことがあると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ面罵して鞭(むち)打つ癖があった。

丹陽の都督(ととく)の嬀覧(ぎらん)と郡丞(ぐんじょう)の戴員(たいいん)は、孫翊の殺害で肚(はら)を合わせ、密かに出入りをうかがう。

井波『三国志演義(3)』(第38回)では、嬀覧は督将(とくしょう。部隊長)とあった。

しかし孫翊に隙が見えないため、ふたりは一策を構える。

孫権に上申して付近の山賊を討伐する許しを得ると、嬀覧は孫翊配下の辺洪(へんこう)を抱き込み、県令(けんれい)や諸将に評議の招きを発した。評議の後は酒宴ということになっている。

時刻が来ると、孫翊も身支度して会合に行こうとしたが、妻の徐氏(じょし)は止めた。彼女は美女が多いという呉の中でも容顔世に超え、麗名の高い女性だった。さらに幼少から易学を好み、卜(うらない)をよくした。

徐氏は、今日に限り不吉な卦(け)が出たと言い、何とか口実を設けて出席を見合わせるよう勧める。だが孫翊は笑い、気にもかけずに出かけてしまった。

評議から酒宴となり、帰宅は夜に入る。孫翊が門外に出てきたところ、かねて示し合わせていた辺洪は不意に躍りかかり、ひと太刀で斬殺した。

すると辺洪を唆した嬀覧と戴員が急に驚いた態をし、「主を害した逆賊め」と辺洪を捕らえ、市へ引き出して首を斬ろうとする。辺洪は約束が違うとわめいたが、そうしている間に首は地へ落ちていた。

嬀覧の悪はそれだけにとどまらず、仇(あだ)討ちの恩を着せて徐氏に迫る。徐氏はあえて媚(こ)びを見せ、月末の晦日(つごもり)に会う約束をした。

こうして徐氏は夫の葬儀を終えると、密かに亡夫の郎党である孫高(そんこう)と傅嬰(ふえい)を呼ぶ。事情を聴いたふたりは嬀覧誅殺の協力を誓った。

約束の日の夜、酔った嬀覧が本性を現すと、徐氏の声に応じて躍り出た孫高と傅嬰は、彼の後ろからひと太刀ずつ浴びせる。徐氏も奪い取った剣で、その脾腹(ひばら)を突き通した。そのうえで初めて、朱(あけ)の中に伏しながら泣けるだけ泣いた。

井波『三国志演義(3)』(第38回)では、嬀覧は傅嬰のひと太刀でバッサリ斬られて床に倒れ、孫高のとどめの一撃で、あっという間に息絶えたとある。

管理人「かぶらがわ」より

諸葛亮の出廬から6年さかのぼり、主題が呉の動静に移りました。ここで一挙に出てきた孫権配下の重臣たちを拾っておきましたが、姓名での登場とあざなでの登場が混ざっていてややこしいですね。

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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