吉川『三国志』の考察 第247話「蜀また倣う(しょくまたならう)」

曹丕(そうひ)が献帝(けんてい)を退けて帝位に即いたことが伝わると、劉備(りゅうび)は痛恨の思いを抱き、激しい憤りを覚える。

初めは難色を示していた劉備も、諸葛亮(しょかつりょう)らの懇願を聞き入れる形で、建安(けんあん)26(221)年4月に成都(せいと)で帝位に即く。劉備は国名を「大蜀(たいしょく)」と号し、年号を「章武(しょうぶ)」と定めた。

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第247話の展開とポイント

(01)成都

曹丕が大魏皇帝(たいぎこうてい)の位に即いたと伝え聞くと、蜀(しょく)の成都にある劉備は悲憤し、日夜、世の逆しまを痛恨していた。

許都(きょと)を追われた献帝は、その翌年(魏の黄初〈こうしょ〉2〈221〉年)、地方で薨去(こうきょ)されたという沙汰も聞こえた。

献帝が地方で薨じた話は誤報。史実では、曹丕から山陽公(さんようこう)に封ぜられた劉協(りゅうきょう。献帝)は、魏の青龍(せいりょう)2(234)年の3月に薨去した。

さらに劉備は嘆き悲しみ、陰ながら祭をなし、孝愍皇帝(こうびんこうてい)と諡(おくりな)を奉る。そして、深く喪に籠もったまま政務も見ない日が多くなり、すべて諸葛亮に任せきって、近ごろは飲食も誠に進まない様子だった。

後漢(ごかん)の朝廷が滅んだ翌年の3月ごろ、襄陽(じょうよう)の張嘉(ちょうか)という一漁翁が、はるばる蜀へ来て、諸葛亮に黄金の印章を献じた。

「夜、襄江(じょうこう)で網をかけておりましたところ、一道の光とともに、河底からこのようなものが揚がりました」

金色燦爛(さんらん)とし、印面には八字の篆文(てんぶん)が刻してある。

それは「受命于天(めいをてんにうけて) 既寿永昌(きじゅえいしょう)」と読めた。

ひと目見るや、諸葛亮はたいへん驚いて言う。

「これこそ本当の伝国の玉璽(ぎょくじ)である。洛陽(らくよう)大乱のみぎり、漢家から持ち出されて、久しく行方知れずになっていると聞くあの宝章に違いない。曹丕に伝わったものは、そのため仮に朝廷で作られた後の物に違いなかろう」

十常侍(じゅうじょうじ)らの乱の際、玉璽が紛失したとのうわさが立ったことについては、先の第20話(01)を参照。

このあたりの記述には混乱が見られる。玉璽は文字通り玉でできていて、黄金の印章ではないし、もちろん金色燦爛としているはずもない。これに「受命于天 既寿永昌」と刻んであったのなら、不可解な話としか言いようがない。

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)には、群臣が劉備に帝位に即くよう勧めた上奏文の中に、関羽(かんう)が樊(はん)と襄陽を包囲したとき、襄陽の男子の張嘉と王休(おうきゅう)が玉璽を献納したことが見えている。

諸葛亮は太傅(たいふ)の許靖(きょせい)や光禄大夫(こうろくたいふ)の譙周(しょうしゅう)らをにわかに集め、故典事例を調べさせる。

これを伝え聞いた人々は、このように言い囃(はや)した。

「それこそ、漢朝の宗親たるわが君が、進んで漢の正統を継ぐべきであると、天の啓示されたものに違いない」

また何事につけ天象を例に引く者たちは、こう説いたりもした。

「そういえば近ごろ、成都の西北の天に、毎夜のごとく、瑞気(ずいき)ある光芒(こうぼう)が立ち上っている――」

要するに、諸葛亮の思う気運というものが、だいたい蜀中に盛り上がってきたのだ。ある日、諸葛亮は諸臣とともに漢中王(かんちゅうおう。劉備)の部屋へ伺候して勧めた。

「今こそ皇帝の御位にお即きになり、漢朝の正閏(せいじゅん。正しい系統や位と、そうでないもの)を正し、祖廟(そびょう)の霊を慰め、またもって、万民を安んずべきときでありましょう」

劉備は驚き、ひどく怒り、いくら襟を正して説いても聞き入れない。諸葛亮は黙然と退出したが、その後は病と称し、政議の席にも一切顔を出さなくなった。

(02)成都 諸葛亮邸

そのうち劉備も心配に耐えられなくなり、ついにある日、自ら諸葛亮の屋敷を訪ね、彼の病を親しく見舞う。諸葛亮は恐懼(きょうく)して病褥(びょうじょく。病床)を出ると、清衣して迎える。

劉備は病状を尋ねるが、諸葛亮は、肉体に病はありませんが、心の病は今や胸を焼くようです、としか答えない。

劉備は、諸葛亮から沈痛を極めた言葉で説かれると、ついにこう約して帰った。

「よくわかった。予の思慮はまだあまりに小乗的であったようだ。予がこのまま黙っていたら、かえって、魏の曹丕の即位を認めているように天下の人が思うかもしれない。軍師(諸葛亮)の病が治ったら必ず進言を容れるであろう」

(03)成都

数日のうちに、もう諸葛亮は明るい眉を蜀宮の政務所に見せていた。

太傅の許靖、安漢将軍(あんかんしょうぐん)の糜竺(びじく。麋竺)、青衣侯(せいいこう)の向挙(しょうきょ)、陽泉侯(ようせんこう)の劉豹(りゅうひょう)、治中従事(ちちゅうじゅうじ)の楊洪(ようこう)、昭文博士(しょうぶんはくし)の伊籍(いせき)、学士(がくし)の尹黙(いんもく)、そのほかおびただしい文武官は毎日のように会議し、大典の典礼故事を調べたり、即位式の運びについて議を重ねていた。

建安26(221)年4月、成都は街が開けて以来の盛事ににぎわう。大礼台は武担(ぶたん。武担山)の南に築かれた。

新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「曹魏は建安25年をもって黄初元年に改元したが、曹魏を認めない蜀漢は建安の元号を使い続けた」という。

鸞駕(らんが。天子〈てんし〉の車)は宮門を出、満地を埋むるごとき軍隊と、星のごとく巡る文武官の万歳の中で、劉備は玉璽を受け、ここに蜀の皇帝たる旨を天下に宣する。

拝舞(君主から頂き物をしたときなどに、舞う動作をしてお礼の意を表すこと)の礼が終わると、ただちに「章武元年となす」という改元のことが発布され、国は「大蜀と号す」と定められた。

新潮文庫の註解によると「劉備は漢朝を継承したため、『漢』あるいは『季漢(きかん)』が正しい。『蜀』は国号ではなく、地域の名である」という。

大魏に大魏皇帝が立ち、大蜀に大蜀皇帝が立ったのである。「天に二日(にじつ。ふたりの天子)なし」という千古の鉄則はここに破れた。

蜀皇帝の位に即いてからの劉備は、その容顔までが一段と変わり、自然に万乗(天子)の重きを漢中王のころからまた加え、何とも言えぬ晩年の気品を帯びてきた。

もっと変わってきたのは気迫である。一時は非常に引っ込み思案で、名分や人道主義にばかりとらわれて、青春期から壮年期にわたって抱いていた大志も、老来まったくしぼんでしまったかと思われた。

しかし諸葛亮を見舞い、彼の病中の苦言を聞いた後は、何か翻然と悟ったらしい人間の大きさと幅。そして文武両面の政務にも疲れを知らない晩年人の老熟とを示してきた。

ある日、劉備の力ある玉音は群臣の上にこう宣した。

「朕の生涯には、なお成さねばならぬ宿題がある。それは呉(ご)を討つことだ。むかし桃園に盟を結んだ関羽の仇(あだ)を討つことである」

「わが大蜀の軍備は、ただその目的のために邁進(まいしん)してきたものと言っても過言ではない」

「朕、いま傾国の兵を挙げ、昔日の盟を果たさんことを、あえて関羽の霊に告ぐ。汝(なんじ)ら、それを努めよ」

人々はみな輝く目をもって応え、血の差し上る面をもって決意を表す。すると趙雲(ちょううん)がひとり反対し、憚(はばか)る色もなく諫めた。

「呉はいま討つべからずです。魏を討てば、呉は自然に滅ぶものでしょう。もし魏を後にして呉へ掛からば、必ず魏呉同体となって、蜀は苦境に立たざるを得ないだろうと思われます」

劉備は叱るがごとく反論するが、趙雲は、骨肉の恨みも不忠の臣の膺懲(ようちょう)も、陛下のご私憤にすぎないと言う。蜀帝国の運命はもっと重いとも。

それでも劉備の決意は固かった。その後、密かに南蛮(なんばん)へ勅使を遣わし、南蛮兵5万余を借りることに成功する。

(04)閬中(ろうちゅう)

その間に、張飛(ちょうひ)の一身に一奇禍が起こった。

このころ張飛は閬中にいたが、車騎将軍(しゃきしょうぐん)・領司隷校尉(りょうしれいこうい)に任ぜられ、閬州(閬中)一円の牧(ぼく)を兼任すべしとの恩命に接したのである。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第81回)では、このとき張飛が西郷侯(せいきょうこう)に封ぜられたともあった。

「わが家兄(このかみ)は、万乗の位(帝位)にお即きになっても、なおこの至らぬ愚弟をお忘れないとみえる」

感情の強い彼は、そう言って勅使の前で泣いた。関羽の死が聞こえて以来、ことに張飛は感情強くなっている。

酔うては怒り、醒(さ)めては罵り、ひとり泣いて呉の空をにらみ、「いつかきっと義兄貴(あにき)の恨みを晴らしてくれるぞ」と剣を叩き、歯を食いしばっていたりすることがままあった。

陣中の兵はこの激情に触れて、よく殴られたり蹴られたりする。ゆえに将士の間には、密かに遺恨を抱く者すらあるような空気だった。

叙任の勅に接した日も、張飛は勅使をもてなした後で激論を吹っかけていた。

「なぜ蜀の朝臣どもは、天子にお勧めして、一日も早く呉を討たんのか?」

管理人「かぶらがわ」より

禅譲後の劉協の扱いや伝国の玉璽についての認識など、やや残念な点もあった第247話でした。ここで劉備が帝位に即くにあたり、劉協が存命でないことにしたほうが効果的だと考えられたのでしょうか?

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