吉川『三国志』の考察 第266話「輸血路(ゆけつろ)」

趙雲(ちょううん)に捕らえられた孟獲(もうかく)だったが、諸葛亮(しょかつりょう)の判断で解放される。

自陣に戻った孟獲は作戦を変更し、瀘水(ろすい)の対岸に頑丈な防寨(ぼうさい)を築く。これを見た諸葛亮は、ちょうど成都(せいと)から到着した馬岱(ばたい)に命じ、蛮軍(ばんぐん)の唯一の糧道を断とうとする。

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第266話の展開とポイント

(01)孟獲の本営

孟獲が生きて帰ったと聞くと、諸方に隠れていた敗軍の蛮将や蛮卒は、たちまち蝟集(いしゅう)して彼を取り巻いた。

孟獲は事もなげに笑ってみせ、部下たちに言う。

「運悪く難所に行き詰まって、一度は蜀軍(しょくぐん)に生け捕られたが、夜に入って檻(おり)を破り、番兵を10余人ほど打ち殺してきたのさ」

「すると別の一隊の軍馬が来て、俺の道を遮ったが、多寡の知れた中国兵。八方へ蹴散らした末に馬を奪い、帰ってきたというわけだ。ははは。おかげで蜀軍の内部はすっかりのぞいてきたが、なあに大したものじゃない」

もちろん部下の南蛮兵(なんばんへい)は、彼の言を絶対に信ずる。ただ阿会喃(あかいなん)と董荼奴(とうとぬ)は、先に諸葛亮に放されて洞中へ引っ込んでおり、孟獲の呼び出しを受けると渋々やってきた。

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第87回)では、董荼奴が董荼那(とうとな)とあり、阿会喃は同じ表記になっていた。

董荼奴と阿会喃が諸葛亮に放されたことについては、先の第264話(05)を参照。

孟獲は、新たに諸洞の蛮将へ触れを回して、たちまち10万以上の兵力を加えた。蛮界の広さと、その蛮界における彼の威力は底知れないものがある。

こうして集まった諸洞の大将連は、風俗や服装から武器や馬具までまちまちで、怪異絢爛(けんらん)を極めた。孟獲はその中に立ち、向後の作戦方針を述べる。

「孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)と戦うには、孔明と戦わないに限る。彼奴(きゃつ)は魔法使いだ。戦えばきっと彼奴の詐術に引っかかる」

「そこで俺は思う。蜀の軍勢は千里を越えて、この慣れない暑さと土地の険しさに、かなりへたばっている様子だ。俺たちはこれから瀘水の向こう岸に移り、あの大河を前にして、うんと頑丈な防寨を築こう」

「削り立った山に沿い崖に沿い、長城を組んで櫓(やぐら)と櫓とをつなげば、いくら孔明でもどうすることもできまい。そして奴らがへとへとになったころを見て、皆殺しにする分には何の造作もない」

(02)諸葛亮の本営

一夜のうちに、蛮軍は風のごとくどこかへ後退してしまった。蜀の諸将は私語まちまちだったが、諸葛亮は「ただ前進あるのみ」と、即日進発を命ずる。

(03)瀘水

蛮地の行軍は、その果てなさに、再び人々を飽かしめた。わけて輜重(しちょう)の困難は言うばかりでない。

すでに(蜀の建興〈けんこう〉3〈225〉年の)5月の末に及び、先陣は行く手に瀘水の流れを見る。河幅は広く水勢も急で、強雨のたびに白浪が天にみなぎった。

強雨と言えば、この地方では日に何回か、必ず盆を覆すような大雨が襲ってきた。猛烈な炎暑にあえぐとき、それは兵馬をホッと救ってくれるが、同時に鎧(よろい)の下も濡れ、兵糧も水に浸される。時には道を失い、みなぎる雨水の中に立ち往生してしまうこともあった。

やがて先鋒の兵は肝を奪われた。対岸の険阻と、その自然を利用した蛮族一流の防寨を見た刹那にである。

それは中国地方の科学的構造とは甚だ趣を異にしているが、堅固な点では、必要以上にも堅固にうかがわれた。当然、遠征軍は瀘水を前にして進軍を阻められる。

日々の強雨に一日中の悪暑。夜は夜で、害虫や毒蛇のほか、様々な獣に苦しめられつつ、滞陣は半月を越えんとしていた。

諸葛亮は各部隊に命じ、瀘水の岸から100里ほど退陣させる。高所や林中など、眠るによく、居るに涼しい地を選んで幕舎を張れと。あえて戦いに焦燥(しょうそう)せず、しばらくは人馬を休め、病にかからぬよう、身の強健にもっぱら努めておるがいいと。

こういうところでは、参軍(さんぐん)の呂凱(りょがい)が大いに役に立った。かねて諸葛亮に献じてある南方指掌図(なんぽうししょうず)によって、地理を案じ、各部隊の滞陣の地を選定したのだ。

南方指掌図について、井波『三国志演義(6)』(第87回)では「平蛮指掌図(へいばんししょうず)」と呼ばれていた。

蜀の部将は、それぞれ選定された地に陣小屋を構え、椰子(ヤシ)の葉を葺(ふ)いて屋根とした。そして芭蕉(バショウ)を敷いて褥(しとね)とし、毎日の炎天をしのいだ。

(04)諸葛亮の本営

ある日、監軍(かんぐん)の蔣琬(しょうえん)が言う。

「山に拠り、林に沿い、延々十数里にわたるこの陣取りは、かつて先帝(劉備〈りゅうび〉)が呉(ご)の陸遜(りくそん)に敗れられたときの布陣とよく似ています。もし敵が瀘水を渡って火攻めをしてきたら防ぎはつきますまい」

井波『三国志演義(6)』(第88回)では参軍の蔣琬とある。

劉備が陸遜に敗れたときの陣取りについては、先の第255話(07)を参照。

諸葛亮は否定もせず、ただ笑って答えた。

「この渫陣(せつじん。散らばった陣)の形は、決してよいと思っているわけでないが、さりとて何の計がないわけでもない。まあ推移を見ておれ」

そこへ成都から、傷病兵のために多くの薬種(くすり)と糧米が輸送されてくる。諸葛亮は、馬岱とその部下の3千が輸送の任にあたってきたと聞くと、すぐに呼び寄せて遠来の労をいたわり、かつ言った。

「きみの連れてきた新手の兵を最前線へ用いたいと思うが、ご辺(きみ)は指揮して行くか?」

死地の中へでも喜んで行くと答える馬岱に、諸葛亮が任務を伝える。

「ここから約150里の瀘水の岸に、流沙口(りゅうさこう)というところがある。そこの渡し口のみは流れも緩く、渡るによい」

井波『三国志演義(6)』(第88回)では、瀘水の下流の沙口とある。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「沙口は地名。益州南部の瀘水沿岸にあるとされる。現在の四川(しせん)・雲南省境(うんなんしょうきょう)付近。後漢(ごかん)・三国時代にこの地名はなかった」という。

「対岸に渡ると山中へ通ずる一道がある。それこそ蛮軍が糧食を運んでいる唯一の糧道だ。もしここを遮断すれば、阿会喃や董荼奴が内変を起こすだろう。きみに命ずるのはそうした任務だが――」

馬岱は、必ずやってみせますと答え、欣然(きんぜん)と下流へ向かった。

(05)瀘水 流沙口

流沙口へ来てみると、案外に河底は浅く、船筏(ふないかだ)も要らない程度だったので、そのまま渡渉した。ところが河流の半ばまで行くと、たちまち人も馬も溺れて流される。

驚いた馬岱は急に兵を返し、土人から子細を聴いた。ここは毒河で、炎天のうちは水面に毒が漂っているため、これを飲むと必ず死ぬのだという。しかし、夜半の冷ややかなころに渡る分には、決して毒にあたることはないとのことだった。

馬岱は深夜を待つ間、木を切って竹を編ませ、無数の筏を準備。こうして2千余騎つつがなく渡るを得た。

(06)夾山(きょうざん)

対岸は山地で、進むほどに峻険(しゅんけん)となってくる。土人の話では「夾山の羊腸」と呼ぶところだという。

井波『三国志演義(6)』(第88回)では夾山峪(きょうざんよく)とある。峪は谷や狭間という意味。

馬岱軍は大山の谷を挟んで陣を取り、その日のうちに、通行する蛮人の輸送部隊の車100輛(りょう)以上、水牛400頭を鹵獲(ろかく)した。さらに翌日にも獲物がある。

(07)孟獲の本営

このことは、すぐに険阻の内に結集している蛮軍10余万の胃袋に影響した。糧道を守る蛮将のひとりが、孟獲に急を告げる。

「蜀の平北将軍(へいほくしょうぐん)の馬岱が、一軍の新手をひきいて、流沙口を渡ってきました」

酒を飲んでいた孟獲は笑って、河の半ばで半分以上は死んだだろう、と馬鹿にするが、敵は夜中に越えてきたのだという。

すでに馬岱が夾山の谷に屯(たむろ)し、こちらの輸送部隊が襲われているとも聞くと、孟獲は部下の忙牙長(ぼうがちょう)を差し向けた。

忙牙長は3千ばかりの蛮兵をひきいていったが、ほどなく手下だけが列を乱して逃げ帰ってくる。

手下たちは口々に告げた。

「忙牙長さまは敵の馬岱と渡り合い、ただ一刀に斬られてしまいました。いったいどうして、あのように脆(もろ)く殺(や)られたのか訳がわかりません」

管理人「かぶらがわ」より

蜀陣からの脱出を自慢げに語る孟獲。そして、ここでも大活躍だった呂凱の南方指掌図。さらには「出ました!」という感じの毒の河。これはいかにも南蛮っぽい。このあたりの南征シリーズは、吉川『三国志』や『三国志演義』の弾けどころなのでしょうね。

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