吉川『三国志』の考察 第056話「好敵手(こうてきしゅ)」

神亭山(しんていざん)で光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)の御霊廟(みたまや)を祭った孫策(そんさく)が、この機会に敵の様子を探っておこうと言いだす。

孫策と部将たちは敵陣に近づき、布陣を見届けて帰ろうとするが、そのとき山のふもとから、槍(やり)を手にした劉繇(りゅうよう)配下の太史慈(たいしじ)が駆け上ってくる。

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第056話の展開とポイント

(01)神亭山

後漢(ごかん)の光武帝(劉秀)の御霊廟に祈りを捧げた孫策。もとの道ではなく南へ向かって下りていこうとし、諸将から注意される。

すると孫策は意を明かし、事のついでに谷を下り、彼方(かなた)の峰を越え、敵の動静を探って帰ろうと言いだす。

このとき付き従っていたのは、程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)・蔣欽(しょうきん)・周泰(しゅうたい)など13人しかいなかったため、豪胆な彼らもさすがに驚く。

結局みな孫策についていき、渓流へ下りて馬に水を飼い、またひとつの峰を巡って南方の平野をのぞきかけた。この動きが早くも劉繇の斥候に捉えられる。

(02)神亭山の南 劉繇の本営

劉繇は、孫策らしい大将がわずか10騎ばかりで近くの山まで来ている、との急報を受ける。しかし信じられない。続く物見が確かに孫策だと告げても、やはり敵の計略ではないかと疑った。

斥候の報告を聞きうずうずしていた太史慈は、ついに諸将の後ろから躍りでて出陣の許しを乞う。

満座の諸将が大いに笑う中、劉繇の許しを得た太史慈と、彼に続いたひとりの若い部将が馬で駆け出した。

(03)神亭山

孫策が敵の布陣をあらまし見届け帰ろうとしていると、ふもとから槍を手にした太史慈が駆け上ってくる。そして一騎討ちに持ち込み、わざと深い林へ走った。これを追う孫策。

やがて峰を巡り裏山のふもとまで来ると、太史慈は馬を返して再び孫策に挑む。馬上で100余合を戦ったものの決着がつかず、大地に転がって組み合う。

ここで「このとき孫策21歳、太史慈30歳」とあった。前の第55話(01)と同様に、興平(こうへい)2(195)年を想定しているものと思われる。

そのころ劉繇のもとに、太史慈が孫策と一騎討ちをしているとの急報が届く。すぐに劉繇は1千余騎をそろえて駆け走り、瞬く間にふもとの林へ近づいた。

孫策は近づいてくる敵の馬蹄(ばてい)の響きに、一気に屠(ほふ)ってしまおうと焦ったが、太史慈が自分の兜(かぶと)をつかんだまま離さない。

そこで首を振り肩越しに、太史慈が肩に掛ける短剣の柄を握って離さないようにした。

太史慈の短剣は、『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第15回)では短い戟(げき。短戟)と表現されている。

そのうち兜がちぎれ、ふたりとも勢いよく後ろへ倒れる。孫策の兜は太史慈の手にあり、太史慈の短剣は孫策の手にあった。

ここへ劉繇の騎兵が殺到。同時に孫策を捜していた部将たちも駆けつけ乱軍となる。

数の少ない孫策らは狭い谷間まで追い詰められたが、ここで神亭廟(しんていびょう)の辺りから一隊の精鋭が駆け下りてきた。帰りが遅いことを心配した周瑜(しゅうゆ)が、500の手勢をひきいて捜しに来たものだった。

日が西山(せいざん)に沈もうとするころ、急に黒雲や白雲が立ち込めて大雨が降り注ぐ。この雨をきっかけに両軍とも退いた。

(04)神亭山の南 劉繇の本営

翌日、孫策は早くも夜明け前に山を越え、劉繇の陣前へひた押しに攻め寄せる。太史慈から奪い取った短剣を旗竿(はたざお)に結びつけ、これを士卒に高く打ち振らせ、ドッと笑って辱めた。

すると劉繇の兵の中からも、一本の旗竿が高く差し伸べられる。これには孫策から奪い取った兜がくくりつけられており、陣頭に馬を進めた太史慈は朗らかに言い返した。

管理人「かぶらがわ」より

わずかな人数で敵情視察を試みる孫策。さすがに肝が太い。一方の太史慈も孫策と組んで一歩も引けを取らないあたり、やはり相当な逸材。タイトル通り好敵手なふたりでした。

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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