吉川『三国志』の考察 第118話 「自壊闘争(じかいとうそう)」

袁紹(えんしょう)が逝ったあと、その正室だった劉氏(りゅうし)は実子の袁尚(えんしょう)を跡継ぎに立てようともくろみ、袁尚の異母兄である袁譚(えんたん)や袁熙(えんき)を遠ざけようとした。

そのころ曹操(そうそう)は再び冀北(きほく)討伐へと動きだしていたが、郭嘉(かくか)の意見に納得し、袁氏兄弟の自壊を待つ策に切り替える。

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第118話の展開とポイント

(01)荊州(けいしゅう。襄陽〈じょうよう〉?)

劉備(りゅうび)が劉表(りゅうひょう)を頼って荊州へ赴いたのは、建安(けんあん)6(201)年の秋9月のこと。劉表は郭外30里(り)まで出迎えたうえ、互いに疎遠の情を述べてから城中での好遇もすこぶる丁重だった。

(02)凱旋途中の曹操(そうそう)

曹操は、汝南(じょなん)から許都(きょと)へ引き揚げる途中でこのことを知り、愕然(がくぜん)とする。劉備を荊州へ追い込んだのは、籠(かご)の魚をつかみ損ねて水沢へ逃がしたようなものだと。

そこで、ただちに方向を転じて荊州へ攻め入ろうとしたが、諸将が来春を待つよう意見したので、結局そのまま許都へ帰ることにする。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第31回)では、程昱(ていいく)が曹操に、いったん許都に軍を返して来年の春を待ち、まず袁紹(えんしょう)を撃破し、そのあと荊襄(けいじょう。劉表の地盤)を攻略すれば、一挙に南北を手中に収めることができると述べていた。

吉川『三国志』では、先の第116話(07)で袁紹が死去したことになっている。これが井波『三国志演義(2)』(第31回)では、(体調こそ思わしくないものの)なお袁紹が存命だという点に注意を要する。

(03)許都

翌建安7(202)年の春早々、許都の軍政はしきりに多忙だった。荊州方面への積極策は一時見合わせとなり、夏侯惇(かこうじゅん)と満寵(まんちょう)が抑えに下る。

曹操は、曹仁(そうじん)と荀彧(じゅんいく)に府内の留守を命じ、残る軍勢をこぞって再び冀北(きほく)討伐をもくろんだ。

(04)冀州(きしゅう)

青州(せいしゅう)・幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)の軍馬は諸道から黎陽(れいよう)へ出て防戦に努める。しかし、曹操軍の怒濤(どとう)は到る所で袁氏の軍勢を撃破し、駸々(しんしん)と冀州の領土へ食い込んでいった。

袁譚(えんたん)・袁熙(えんき)・袁尚(えんしょう)らも、めいめい手痛い敗北を負う。彼らが続々と逃げ戻ってきたので本城は混乱した。

井波『三国志演義(2)』(第32回)では、黎陽で曹操に敗れた袁尚が逃げ帰ったと聞き、驚いた袁紹は病気が再発。ほどなく危篤となって口が聞けない状態(手真似はできる)になり、夫人の劉氏(りゅうし)の主導で審配(しんぱい)が(袁尚を跡継ぎにするとの)遺言状を作成。ここで袁紹は寝返りを打ち、ギャッとひと声叫ぶと、また1斗(と)余りの血を吐いて息絶えたとある。

のみならず袁紹の未亡人の劉氏は、まだ夫の喪を発しないうちに日ごろの嫉妬(しっと)を表す。夫が生前に寵愛していた5人の側女(そばめ)を、武士に言いつけ後園へ追い出し、そこここの木陰で刺し殺してしまったのだ。

そのうえ「死んだ後も、九泉(あの世)の下で魂と魂とが再び巡り会うことがないように」という思想から、その屍(しかばね)まで寸断してひとつの所に埋めさせなかった。

ここへ袁尚が先に逃げ帰ってきたので、劉氏は率先して父の喪を発し、遺書を受けたと唱えて冀州城(鄴城〈ぎょうじょう〉?)の守に座るよう促す。

その後、袁譚が遅れて城外まで引き揚げてくると、父の喪が発せられると同時に袁尚の使いとして逢紀(ほうき)がやってきた。

逢紀が印を捧げ、「車騎将軍(しゃきしょうぐん)」に任ずるという袁尚の旨を伝えると、袁譚は馬鹿にするなと怒る。

そこで袁譚が城中へ行って話をつけようとすると、急に郭図(かくと)が諫め、今は兄弟で争っているときではないと言う。思い直した袁譚は兵馬を再編制し、再び黎陽の戦場へ引き返した。

(05)黎陽

袁譚は曹操軍にぶつかり、先の大敗を盛り返そうとしたが兵を損ずるばかり。

井波『三国志演義(2)』(第32回)では、ここで袁譚配下の部将の汪昭(おうしょう)が、曹操配下の徐晃(じょこう)に斬られている。だが、吉川『三国志』では「汪昭」を使っていない。

黎陽まで随行していた逢紀は、袁譚と袁尚を仲良くさせたいものと考え、独断で冀州へ使いを遣り来援を促す。しかし、袁尚のそばにいる知者の審配が反対、そのうち袁譚は苦戦に陥る。

また、逢紀が独断で冀州へ書簡を送ったことも耳に入ったので、その僭越(せんえつ)をなじって手討ちにしてしまった。袁譚は、曹操に降ってともに冀州の本城を踏みつぶす、という破れかぶれな策を放言する。

(06)冀州(鄴城?)

このことが早馬で冀州へ密告されると、袁尚や審配も驚く。今度は審配も援軍に出向くよう袁尚に勧める。袁尚は審配と蘇由(そゆう)を本城に留め、自ら3万余騎をひきいて袁譚のもとに駆けつけた。

(07)黎陽

袁譚は意を翻して袁尚と両翼に分かれ、士気を改め曹操軍と対峙する。そのうち袁熙や(袁紹の)甥の高幹(こうかん)も一方に陣地を構築して三面から防いだので、さしもの曹操軍もやや食い止められた。

戦いは翌建安8(203)年の春にわたって、まったく膠着(こうちゃく)状態に入るかとみえたが、2月の末から曹操軍の猛突撃が開始され、袁氏の軍勢は雪崩(なだれ)を打ちその一角を委ねてしまう。

(08)冀州(鄴城?)

曹操軍は冀州の城外30里まで迫ったが、犠牲を顧みずに惨憺(さんたん)たる猛攻撃を続けても、この堅城鉄壁は揺るぎもしなかった。

郭嘉(かくか)は袁氏兄弟の争いと諸臣の分裂を見て取り、やがて変が現れるまで、ここは兵を退いて待つべきではないかと進言。

曹操も彼の言葉にうなずき、急に総引き揚げを断行。ただ、黎陽や官渡(かんと)といった要地には再征の日に備え強力な部隊を残す。

井波『三国志演義(2)』(第32回)では、曹操は賈詡を「太守(たいしゅ)」に任じて黎陽を守らせ、曹洪(そうこう)には官渡を守らせた後、大軍をひきいて荊州へ向かったとある。

冀州城が小康的な平時に返ると、たちまち国主問題を巡って内部の葛藤(かっとう)が始まる。なお袁譚は城外の守備にあったので、城へ入れろと言うが、袁尚は許さず兄弟喧嘩(げんか)をしていた。

すると袁譚が急に折れ、袁尚を酒宴に招く。袁尚が迷っていると、審配はある者から聞いたと言い、あなたを招いて油幕に火を放ち、焼き殺す計だと伝える。

そこで袁尚が5万の兵を連れて出向くと、袁譚は急に鼓を打ち鳴らして戦いを挑む。陣頭で兄弟が火花を散らすに至ったが、袁譚が敗れ平原(へいげん)へ逃げた。袁尚は兵力を加え、袁譚を包囲して糧道を断つ。

井波『三国志演義(2)』(第32回)では、ここで袁譚配下の部将の岑璧(しんへき)が、袁尚配下の部将の呂曠(りょこう)と戦って斬られるというくだりがあったが、吉川『三国志』では使われていない。

(09)平原

袁譚が郭図に諮ると、一時、曹操に降伏を申し入れ、曹操が冀州を突いたら引き返す袁尚に追い討ちをかけるよう勧められる。

袁譚は勧めに従い、平原令(へいげんれい。平原県令)の辛毘(しんび。辛毗)に使いを命じ、曹操へ書簡を届けさせた。さらに、使者の行を盛んにするため兵3千余騎を付ける。

(10)西平(せいへい)

このとき曹操は、荊州へ攻め入る計画で河南(かなん)の西平まで来たところだった。さっそく辛毘を引見し、袁譚の降伏の申し入れを聞く。

そして評議を開き、荀攸(じゅんゆう)の卓見を採る。荀攸は、劉表は一時差し置いても大したことはないと言い、あくまで冀北の4か国(冀州・青州・幽州・幷州)のほうが厄介だと言うのだった。

袁譚の乞いを容れ、急に袁尚を滅ぼした後、変を見て袁譚らほかの一族を順々に処置していくのが過ちのないやり方だと。

また曹操は辛毘を招き、袁譚の降伏が真実か偽りかを問いただす。辛毘は冀州の現状を語り、ただちに鄴城を突くよう勧める。曹操は袁譚に援助し鄴城へ進むことを決めた。

その夜は諸将を加えて盛んなる杯(さかずき)を挙げ、翌日には陣地を引き払い、大軍ことごとく冀州へ転じた。

管理人「かぶらがわ」より

袁紹亡き後もなお強大な勢力を保っていた袁氏。ところが、跡継ぎの座を巡り袁譚と袁尚との間で争いが激化。

こうなると、どうしても流れは曹操へ……。ただ、この状況を招いたのは袁紹の生前の態度なのですよね。

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吉川『三国志』 (5) 孔明の巻
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