吉川『三国志』の考察 第117話「泥魚(でいぎょ)」

袁紹(えんしょう)を死に追いやった曹操(そうそう)は許都(きょと)に戻るが、帰途で劉備(りゅうび)の動きを聞くと、そのまま汝南(じょなん)へ急行する。

劉備は穣山(じょうざん)一帯で曹操に大敗し、漢江(かんこう。漢水〈かんすい〉)のほとりまで逃げ延びた。己を恥じる劉備に、関羽(かんう)は河洲(かわす)の渚(なぎさ)にいた泥魚(でい)を指さして言葉をかける。

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第117話の展開とポイント

(01)許都へ向かう曹操

許都へ戻る途中の曹操だったが、劉備の動きを聞くと曹洪(そうこう)を黄河(こうが)に残し、ただちに自身は汝南へ向かう。

(02)穣山

すでに汝南を発していた劉備は、曹操の大軍があまりにも早く南下したばかりか、逆寄せの勢いで攻めてきたと聞き、穣山の地の利を占めようと急ぐ。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「穣山は山の名。豫州(よしゅう)汝南郡に属すと思われる。後漢(ごかん)・三国時代にはこの地名はなかった」という。

劉備は劉辟(りゅうへき)と龔都(きょうと。共都)の兵を併せ、50余里に布陣。先鋒は三段に分かれて備える。

東南(たつみ)の陣に関羽、西南(ひつじさる)の陣に張飛(ちょうひ)、南の中核に劉備、脇備えとして趙雲(ちょううん)の一隊が控えた。曹操の大軍は穣山から2、3里のところに、一夜にして八卦(はっけ)の象(かたち)に布陣した。

(03)穣山の近郊

夜明けとともに両軍は戦端を開いたが、やがて中軍を割って曹操が姿を現すと、これに応じ劉備も陣頭に駒を立てる。

曹操は、劉備を忘恩の徒だと罵るが、劉備は、曹操が丞相(じょうしょう)というのは、天子(てんし)の御意でないのは明らかだと言い返す。

そして、かねて董承(とうじょう)が献帝(けんてい)から賜った密詔の写しを取り出し、馬上のまま声高らかに読み上げた。

董承が(血の)密詔を賜ったことについては、先の第79話(01)を参照。

いつも朝廷の軍たることを真っ向に宣言して戦いに臨んできた曹操が、この日初めてその位置を替え、官軍の名を取られた形になる。

曹操が劉備を引っつかんでくるよう命ずると、ひと声吼(ほ)えて許褚(きょちょ)が進む。これを迎えたのは趙雲で、ふたりの勝負は決着がつくように見えなかった。

関羽が横から攻めかかり、張飛も猛然と声を合わせて側面を突くと、曹操の八卦陣は三方からもみ立てられ、ついに5、60里も退却してしまう。

その夜、劉備は喜びを見せたが、関羽は首を振り、計の多い曹操のことだから、と注意を促す。

翌日、劉備は関羽の進言を容れ、試みに趙雲を出して挑戦させたが、曹操の陣は鳴りを静めたきり動かない。7日、10日と過ぎても一向に戦意を示さなかった。

ひとり関羽が怪しんでいると、汝南から前線へ兵糧を運んでくる龔都の部隊が、道中で曹操の伏勢に囲まれ全滅しそうになっているとの飛報が届く。

続く早馬の伝令からは、強力な敵軍が遠く迂回(うかい)して汝南(平輿〈へいよ〉?)へ急迫し、留守の部隊が苦戦に陥っているとの知らせも届いた。

劉備は色を失い、汝南へは関羽を急派し、張飛には龔都の救援を命ずる。しかし張飛の手勢も、龔都のところまで行かないうちに敵に包囲されたと聞こえ、関羽とは連絡も絶え、本軍は孤立の相を呈してきた。

劉備は進退に迷う。趙雲は打って出て前面の敵と雌雄を決するべきだと言ったが、劉備は自重し、ひとまず穣山へ退却する。

ところがようやく穣山のふもとに差しかかると突然、断崖の上から声がして、これに応える喚声とともに、山上から太い火の雨が降ってきた。逃げ惑う劉備の兵に降伏を呼びかける曹操の声が届くと、争って剣を捨て槍(やり)を投げ、投降する者が出る。

趙雲は劉備の血路を開きながら逃げ延びたが、于禁(うきん)と張遼(ちょうりょう)の部隊が寄せてきて道をふさぐ。

趙雲は槍で遮る敵を叩き伏せ、劉備も両手に剣を振るってしばらく戦ったが、今度は李典(りてん)の部隊が後ろから迫る。劉備はただ一騎で山間へ駆け込み、ついに馬も捨て、身ひとつを深山へ隠す。

夜が明けると、一隊の軍馬が峠の道を南のほうから越えてきた。劉備は驚いて隠れかけたが、よく見ると味方の劉辟である。その中には孫乾(そんけん)や糜芳(びほう。麋芳)らもいた。

話を聞くと、汝南も支えきれなくなったため、夫人や一族を守護してここまで落ち延びてきたのだという。

こうして汝南の残兵1千余を連れ、関羽や張飛と合流しようと山づたいに3、4里ほど行くと、敵の高覧(こうらん)と張郃(ちょうこう)の両隊が忽然(こつぜん)、林の中から紅の旗を振り突撃してくる。

劉辟は高覧と戦い一撃の下に斬り落とされたが、趙雲は高覧に飛びかかり、ひと突きに刺し殺した。やがて趙雲も戦い疲れ、劉備も進退窮まり自刃を覚悟する。

だが、そのとき一方の険路から関羽の部隊の旗が見える。養子の関平(かんぺい)や部下の周倉(しゅうそう)を従え、300余騎で駆け下ってきた。関羽らは猛然と張郃の勢を後ろから粉砕し、趙雲と協力して屠(ほふ)ってしまう。

(04)穣山

そのうちに、おとといから敵中に苦戦していた張飛も、ふもとの一端を突破して山上へ逃げ登ってくる。張飛は劉備に、兵糧輸送の任にあった龔都が夏侯淵(かこうえん)のため討ち死にを遂げたと復命した。

劉備は山険に拠って最後の防御にかかる。だが、にわか造りの防寨(ぼうさい)なので風雨にも耐えられないうえ、兵糧や水にも困り抜いた。

物見からは、曹操自ら大軍を指揮してふもとから総掛かりに寄せてくるとの急報が届く。劉備は決心を固め、関羽・張飛・趙雲らを挙げ、ふもとの大軍へ逆落としに突撃した。

半日余にわたる死闘の末、その夜、曹操は劉備が無力化したのを見届け、許都への凱旋(がいせん)の途に就く。

(05)漢江(漢水)

劉備は少ない残軍をさらに散々に打ちのめされ、わずかな将士を引き連れ流亡を続ける。やがてひとつの大江に行き当たると、船を探して対岸へ渡った。土地の漁夫に尋ねたところ、ここは漢江だという。

ほどなく江岸の小さい町や田の家から、羊の肉や酒、野菜などが献ぜられる。一同は河砂の上に座って酒を酌み、肉を割いた。

劉備が、おのおのに対して上げる面もない心地がすると言いだすと、みな頭(こうべ)を垂れてすすり泣く。

関羽は杯を下に置き、漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)の例を挙げて励ます。

ここで関羽が、劉備と兄弟の義を結んで君臣の契りを固めてから、すでに20年だと言っていた。まだ「桃園の誓い」から20年も経っていないと思うが……。

さらに関羽は、乾き上がっている河洲の渚の泥魚を指さす。

ここでは泥魚に「でい」というルビを付けていたが、この第117話のタイトルでは「でいぎょ」というルビを付けていた。どちらを優先すべきか判断つかず。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第31回)では、関羽が泥魚の話をしたことは見えなかった。

この魚は日照りが続き河水が干上がると、頭から尾までを泥にくるみ、幾日でも転がったままでいるのだと。そして自然に身の近くに水が誘いに来れば、たちまち泥の皮を剝ぎ、チロチロと泳ぎだすのだと。

関羽は泥魚と人生を重ね、人間にも幾たびか泥魚の隠忍に倣うべき時期があると思うと言い、皆を元気づけようとした。

するとにわかに孫乾が、荊州(けいしゅう)はここから遠くないので、ひとまず劉表(りゅうひょう)を頼られてはどうかと言いだす。

劉備も一応は同意するが、先方の思惑を憚(はばか)りためらう。それでも孫乾は進んで荊州行きを志願し、一同の賛意を得るとすぐに使いに立った。

(06)荊州(襄陽〈じょうよう〉?)

劉表は孫乾を城内へ引き入れ、親しく劉備の境遇を聞き取ると即座に快諾。侍側の蔡瑁(さいぼう)は異を唱えたが、孫乾の反論に遭ったうえ、劉表からも一喝されたので、顔を赤らめ黙ってしまった。

管理人「かぶらがわ」より

許都への凱旋を引き延ばし、汝南の劉備軍を片づける曹操。劉備のほうもだいぶ陣容が強化されたものの、まだまだ層は薄いようです。

テキストについて

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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