吉川『三国志』の考察 第176話「周瑜・気死す(しゅうゆ・きしす)」

諸葛亮(しょかつりょう)の周到な手回しの前に、とうとう劉備(りゅうび)を取り逃がした周瑜(しゅうゆ)。

さらに、劉備を迎えに来た諸葛亮から辛辣(しんらつ)な言葉を投げかけられると、周瑜は血を吐き倒れてしまう。

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第176話の展開とポイント

(01)劉郎浦(りゅうろうほ)

諸葛亮が従えてきた荊州(けいしゅう)の舟手の兵は、みな商人に姿を変えていた。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「劉郎浦は劉郎洑ともいう。後漢(ごかん)では荊州(けいしゅう)南郡(なんぐん)に属した。なお、この地名は実際には三国時代以後に登場した地名であり、唐宋(とうそう)時代の書物には、劉備が呉(ご)の孫権の妹を娶(めと)ったところとして記されている」という。

劉備と夫人、そして500人の随員をおのおのの舟に収容すると、たちまち櫓櫂(ろかい)を操り、帆を揚げて入り江の湾口を離れる。呉の追手は遅ればせに来て、岸にひしめき合っていた。

諸葛亮は一舟の上から、それを指して言う。

「すでにわが荊州は一国たり。一国が一国を謀るもよし、攻めるもよいが、美人をもって釣るような下策はあまりにも拙劣極まる。汝(なんじ)ら、呉へ帰ったら周瑜に告げよ。再びかかる錯誤はするなと」

多くの舟からドッと嘲笑が上がった。対して岸からは雨のように矢が飛んできたが、みな江波に落ちて流される。

(02)長江(ちょうこう)

劉備らが江上を数里進んでふと下流を見ると、追い風に満帆を張った兵船が100艘(そう)ばかり見えた。

中央に「帥」の字の旗を立てており、明らかに周瑜が座乗しているらしい。左には黄蓋(こうがい)の旗印が見え、右には韓当(かんとう)の船が並ぶ。

皆が色を失うと、諸葛亮はかねて予測されていたことだと速やかに岸へ寄せ、そこからは陸路を取って逃げ走った。

(03)黄州(こうしゅう)の境

呉の水軍も船を捨て、陸地へ駆け上がる。黄蓋・韓当・徐盛(じょせい)など、飛ぶがごとく馬を速めて追う。

『三国志演義大事典』によると「黄州は荊州江夏郡(こうかぐん)に属す。この地名が行政区画として置かれたのは、実際には元代(げんだい)以降のことである」という。

周瑜が「ここはどの辺だ?」と諸将に尋ねると、徐盛が「黄州の境にあたります」と答えた。

そのとき山の陰から一彪(いっぴょう)の軍馬が奔進してくる。これは関羽(かんう)の一隊だった。

周瑜が敵の備えを見て退きかけると、左の沢からも右の峰からも、黄忠(こうちゅう)や魏延(ぎえん)の猛兵が現れる。呉の将士は存分な戦いもせず、続々と討ち死にを遂げた。

周瑜は上陸した場所まで馬に鞭(むち)打って逃げ延び、あわてて船へ身を移す。

すると、もう遠い先へ行っているはずの諸葛亮が、忽然(こつぜん)と一隊の兵をひきいて江岸に姿を現し、大音に言った。

「周郎(周瑜)ノ妙計ハ天下ニ高シ。夫人ヲ添エ了(おわ)ッテ。マタ、兵ヲ折(くじ)ク」

これを二度も繰り返して一斉にドッと笑い囃(はや)したので、周瑜は勃然と怒り、船を岸へ寄せろと怒鳴る。

(04)長江

しかし黄蓋や韓当らは、味方があらまし討たれ、残る士卒も戦意を失っているのを見ると、もがく周瑜を抱き止めながら、船手の者に船を中流へ出すよう命じた。

周瑜は眦(まなじり)に血涙をたたえて叫ぶ。

「無念。実に無念。かかる恥を受け、かかる結末をもって、何で大都督(だいととく)周瑜たる者が再び呉国へ帰れよう。おめおめと呉侯(ごこう。孫権〈そんけん〉)にお目にかかれよう。俺は恥を知っている」

そして、歯をギリギリかみ鳴らしたかと思うと、口から真っ赤な血を吐き、朽ち木倒れに船底へ倒れてしまう。呉の諸将は彼の体を抱き起こし、左右から悲痛な声を振り絞った。

しばらくしてようやく周瑜は薄目を開き、かすかな声で「船を呉へ向けてくれ」と言う。蔣欽(しょうきん)と周泰(しゅうたい)は、病都督の身を守って柴桑(さいそう)まで帰った。

(05)呉城(京城〈けいじょう〉?)

やがてこの始末を知った孫権は鬱憤(うっぷん)のやり場もなく、日夜、劉備への報復を考えていた。

ここでいう呉城は『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第56回)では南徐(なんじょ)。南徐については先の第171話(06)を参照。

そこへ病中の周瑜から長文の書簡が届く。「君(主君)。一日も早く兵馬を強大にし、荊州を討ち懲らしたまえ」とある。

その気になった孫権が軍議を会そうとすると、張昭(ちょうしょう)が諫めた。いま赤壁(せきへき)の恥をそそがんと、曹操(そうそう)が再軍備にかかっていることをお忘れですかと言い、劉備が彼と結ばないよう処置を講じておくことが必要だと述べる。

さらに、すぐにも都(許都〈きょと〉)へ使いを上せて朝廷に表を捧げ、劉備を荊州太守(けいしゅうたいしゅ)に封ずるのが何よりだと思うと付け加えた。

初め孫権はおもしろくない顔をしたが、張昭に諭され了承。その推挙を容れて華歆(かきん)を呼ぶ。

井波『三国志演義(4)』(第56回)では張昭は孫権に、劉備を荊州牧(けいしゅうぼく)に任じてほしいと上表するよう勧めていた。

井波『三国志演義(4)』(第56回)では、華歆を推挙したのは顧雍(こよう)。

管理人「かぶらがわ」より

諸葛亮に嘲笑され、屈辱のあまり倒れる周瑜。確かに一連の周瑜の計は空振り続きでしたが、この諸葛亮の対応もどうなのかと感じました。

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