渭水(いすい)の本営で天文を観ていた司馬懿(しばい)は、諸葛亮(しょかつりょう)の死を確信する。そこで夏侯覇(かこうは)に偵察を命じ、蜀軍(しょくぐん)が密かに引き揚げの準備をしていると聞くや、全軍で総攻撃をかけた。
司馬懿は息もつかずに急追したが、その前に蜀軍が立ちふさがる。しかも、いつもの四輪車には諸葛亮の姿があった。仰天した司馬懿が逃げだすと、魏軍(ぎぐん)も大混乱に陥ってしまう。
第310話の展開とポイント
(01)渭水の北岸 司馬懿の本営
一夜、司馬懿は天文を観て愕然(がくぜん)とし、また歓喜して叫んだ。
「孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)は死んだ!」
彼が総攻撃を命ずると、息子の司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)は、父の異常な興奮に、かえって二の足を踏む。
息子らに諫められた司馬懿は、まずは夏侯覇(夏侯霸)に命じ、そっと蜀軍の空気を見定めてこさせることにする。
夏侯覇は命を奉じ、わずか20騎ほどを連れ、繚乱(りょうらん)の秋暗く更けた広野の白露を蹴って探りに行く。
(02)五丈原(ごじょうげん) 魏延(ぎえん)の軍営
蜀陣の外郭線は魏延の守るところだったが、ここの先鋒部隊では、まだ誰も諸葛亮の死を知らない。ただ、魏延は夕べ変な夢を見たので妙に気になっていた。
けれど、ちょうど午(ひる)ごろ訪ねてきた友達の行軍司馬(こうぐんしば)の趙直(ちょうちょく)が、「それは吉夢じゃないか。気にするにあたらんどころか、祝ってもいいさ」と言ってくれたので、大いに気をよくしていたところである。
魏延が見た夢というのは、自分の頭に角が生えたという奇夢だった。それを話すと、趙直は非常に明快に夢占(ゆめうら)を解いてくれた。
「麒麟(きりん)の頭にも角がある。蒼龍(そうりゅう)の頭にも角はある。凡下の者が見るのは凶になるが、将軍のような大勇才度のある人が見るのは、実に大吉夢と言わねばならん」
「なぜならこれを卦(け)について観れば、変化昇騰の象(かたち)となるからだ。案ずるに将軍は今後、必ず大飛躍なされるだろう。そして位人臣を極めるに違いない」
ところが趙直は、帰る途中で尚書(しょうしょ)の費禕(ひい)と出会う。費禕から聞かれると、ありのまま、魏延に夢判断をしてやったことを話す。
費禕が重ねて、足下(きみ)の夢判断は本当のことかと尋ねると、趙直はこう答えた。
「いやいや。実際は甚だ凶夢で、彼のためには憂うべきことだが、あの人間にそのような真実を話しても恨まれるだけのこと。だから、いい加減なこじつけを話してやったにすぎない」
さらに費禕が、ではその夢はどう凶(わる)いのかと聞くと、趙直は笑って言う。
「角という文字は、刀を用うと書く。頭に刀を用いるときは、その首が落ちるに決まっているではありませんか」
いったん立ち別れたが、費禕はあわてて趙直のほうへ戻り、魏延の夢の話を誰にもしないようにと口止めする。そして趙直と会った顔はどこにも見せず、その夜、費禕は魏延の陣所へ来て対談した。
諸葛亮の死を知らされると、たちまち魏延は自分が軍権を執ると言いだす。費禕はこの場では逆らわず、大いに力になるとし、誓書まで差し出してみせた。
(03)五丈原 蜀軍の本営
費禕は、楊儀(ようぎ)を説くと称して本陣へ帰ると、なお悲愁の裡(うち)にある諸将と相談した。
「丞相(じょうしょう。諸葛亮)のお言葉にたがいなく、魏延は反気満々で、むしろこのときを喜んでおるふうだ。このうえは、ご遺言通り姜維(きょうい)を後陣として、我らもまた、制法に従って退陣にかかろうではないか」
予定のことであり、異議なく決まる。そこで極密のうちに諸陣の兵を収め、万端整え終わって、翌日の夜に静かに総引き揚げを開始した。
(04)五丈原 魏延の軍営
一方の魏延は、首を長くして費禕の吉報を待っていたが、一向に沙汰がない。その悠長にイライラしていた。ふと馬岱(ばたい)の顔を見たので、腹蔵のものを打ち明けてみる。
すると馬岱は言った。
「いや、それは眉唾ですぞ。昨日の朝、費禕の帰るのを見ておりましたが、陣門から馬に飛び乗るやいな、ひどく大あわてに鞭(むち)を当てていきましたからな」
そこへ物見の者から、昨夜来、味方の本陣は総引き揚げにかかり、すでに大半は退き、後陣の姜維も、はや退軍にかかっていると告げてくる。
いよいよ魏延はあわてだす。まるで旋風(つむじ)でも立つように、たちまち号令して陣屋を畳ませ、馬具や兵糧の調えもあわただしく、すべてを打ち捨てて本軍の後を追った。
(05)渭水の北岸 司馬懿の本営
先に司馬懿の命を受けて五丈原の偵察に出た夏侯覇は、馬も乗りつぶすばかりに鞭を打ち続けて帰ってくる。
司馬懿は、蜀軍が密かに引き揚げの準備をしているようだと聞き、快哉(かいさい)を叫ぶ。そして足をそばだててわめき、こう号令を発した。
★耳や目ならわかりやすいが、足をそばだてるという用法もあるのかわからなかった。
「孔明死す。孔明死せりか……」
「今は速やかに残余の蜀兵を追い崩し、槍(やり)も刃も血に飽くまで、それを絶滅し尽くすときだ。天なるかな、時なるかな。いざ行こう。いざ来い。出陣の鉦鼓(しょうこ)、鉦鼓!」
銅鑼(どら)は鳴り、鼓は響く。陣々、柵という柵、門という門から、旗も煙り、馬もいななき、あたかも堰(せき)を切って出た幾条もの奔流のごとく、魏の全軍は先を争って五丈原へ駆ける。
(06)五丈原 蜀軍の本営
すでにして五丈原の蜀陣に近づいたので、魏の大軍は鼓躁(こそう)して一時になだれ入ったが、もう蜀軍は一兵もいなかった。
さてこそあれと、いよいよ司馬懿は心を急にして、司馬師と司馬昭に言う。
「汝(なんじ)らは後陣の軍をまとめて後より続け。敵はまだ遠くには退いておるまい。われ自ら捕捉して退路を断たん。後より来い」
(07)蜀軍を追撃する司馬懿
司馬懿が息もつかずに追いかけていくと、たちまち一方の山あいから、闘志潑剌(はつらつ)たる金鼓が鳴り響く。
「蜀軍あり!」と叫ぶ者があったので、司馬懿も駒を止めてみる。まさしく一彪(いっぴょう)の軍馬が、蜀江(しょっこう)の旗と丞相旗を振り掲げ、一輛(いちりょう)の四輪車を真っ先に押してきた。
★蜀江の旗は、蜀江の錦の旗だと思うが、蜀錦の旗ではなく蜀江の旗でも通用するのか、イマイチわからなかった。
司馬懿は仰天した。死せりとばかり思っていた諸葛亮は、白羽扇を持って端座している。
車を護り巡っている者は姜維以下、手に手に鉄槍(てっそう)を持った十数人の大将であり、士気や旗色、どこにも陰々たる喪の影は見えなかった。
(08)退却中の司馬懿
司馬懿は度を失い、馬に鞭打ち、にわかに後ろを見せて逃げ出す。
これを姜維が追うと、魏の先駆の諸将も口々に、「孔明は生きている!」「孔明なお在り!」と、驚愕(きょうがく)狼狽(ろうばい)。
我先に馬を返したので、魏の大軍はすさまじい怒濤(どとう)の姿を急激に押し戻され、馬と馬はぶつかり合い、兵は兵を踏みつぶし、阿鼻叫喚の大混乱を現出した。
蜀の諸将とその兵は、思うさまこれに鉄槌(てっつい)を加える。わけて姜維は壊乱する敵軍深くへ分け入り、司馬懿を追い続けていた。
司馬懿は後ろも見ない。押し合い踏み合う味方の混乱も蹄(ひづめ)にかけ、ただ右手(めて)の鞭を絶え間なく、馬の尻に加えていた。身をたてがみに打ち伏せ、目は空を見ず、心に天冥の加護を念じ、ほとんど生ける心地もなく走った。
だが行けども行けども、誰か後ろから追ってくる気がする。そのうち50里も駆けると、さしも平常名馬と言われている駿足(しゅんそく)も、よろよろに脚が乱れてきた。
そこへ追いついてきたふたりの大将を見ると、味方の夏侯覇と夏侯威(かこうい)の兄弟である。
★『三国志演義(7)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第104回)では、ここで追いついたのは夏侯覇と夏侯恵(かこうけい)のふたり。
司馬懿は初めて肩で大息をついたが、なおしたたる汗に老眼も暗く霞(かす)み、半刻(はんとき)ほどは常の面色に返らなかったと、後々まで言い伝えられた。
実際、彼の転倒した驚きぶりは察するに余りある。彼においてすらそうであったから、魏の大軍が受けた損傷は莫大(ばくだい)だった。
夏侯覇兄弟がこう勧める。
「蜀勢は急激に退いたようです。この際、お味方を立て直し、さらに猛追撃を試みられてはどうです?」
しかし司馬懿は、「孔明なお在り」と一時に信じ、恐怖していたため、容易に意を決するに至らない。ついに全軍に引き揚げを命ずると、自身も近道を取り、むなしく渭水の陣へ帰ってしまう。
(09)渭水 司馬懿の本営
やがて散走した諸将も追い追いに集まり、逃散(ちょうさん)した近辺の百姓もぼつぼつと陣門に来て、いろいろな説をなす。それらの者の報告を総合してみると、だいたい次のような様子がようやく知れた。
すなわち、蜀軍の大部分は、疾(と)く前日のうちに五丈原を去り、ただ姜維の一軍のみが、最後の最後まで踏みとどまっていたものらしい。
百姓たちは目撃した実情を口々に伝える。
「初めの日の夕方、大勢の蜀軍が五丈原から西方の谷間に集まっておりました。そして白の弔旗と黒の喪旗を立て並べ、一輛の蓋霊車(霊柩車〈れいきゅうしゃ〉)を崇(あが)めて、夜明けごろまで人々の嘆き悲しむ声が絶えませんでした」
また、百姓たちはこうも語った。
「車の上の丞相さまにも、青い紗(しゃ)を巡らせてありましたが、どうも木像のように思われました」
これを聞いて初めて、司馬懿は諸葛亮の死が真実だったことを悟る。
(10)再び蜀軍を追撃する司馬懿
急に司馬懿は、再び兵を発して長駆追ってみたが、すでに蜀軍の通った跡には、渺(びょう。水などの広々としたさま)として一刷の横雲が山野を引いているのみだった。
「今は追うも益はない。しかず長安(ちょうあん)へ帰って、予も久々に安臥(あんが)しよう」
司馬懿は赤岸坡(せきがんは。赤阪〈せきはん〉?)から引き返し、その帰途で諸葛亮の旧陣を見る。出入りの跡、諸門衙営(がえい。兵営)の名残、みな整々と法にかなっていた。
司馬懿は低徊(ていかい)久しゅうして、在りし日の諸葛亮を偲(しの)びながら、独りこうつぶやいたという。
「真に、彼や天下の奇才。おそらくこの地上に、再びかくのごとき人を見ることはあるまい」
管理人「かぶらがわ」より
諸葛亮の木像を見て逃げ走ってしまった司馬懿。もちろん諸葛亮は偉大ですが、その才を素直に認めることができた司馬懿も、また偉大なのだと思います。
この諸葛亮の死をもって、劉備(りゅうび)から引き継がれた蜀による漢朝(かんちょう)再興の大業は、事実上ここで潰(つい)えることになりました。
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